松永英明のゲニウス・ロキ探索――「場所の記憶」「都市の歴史」を歩く、考える

サンプル誌


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          松永英明のゲニウス・ロキ探索
    ――「場所の記憶」「都市の歴史」を歩く、考える――

 サンプル号
 No.035:忌野清志郎の「多摩蘭坂」=たまらん坂(国立市・国分寺市)

           ◎◎2009年05月18日◎◎
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    【 目 次 】
■ 忌野清志郎の「多摩蘭坂」=たまらん坂(国立市・国分寺市)
■ 編集後記
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このメールマガジンは、2008年9月より2010年9月まで、有料メールマガジン
として発行されてきました。2010年10月の通算101号より無料化し、
どなたでも自由にお読みいただけるメールマガジンとなります。

サンプル号として、実際に有料版として配信されたバックナンバーの記事
から、2009年5月18日号、忌野清志郎の「たまらん坂」を訪れたレポートを
公開いたします。

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■忌野清志郎の「多摩蘭坂」=たまらん坂(国立市・国分寺市)
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5月2日、素晴らしいロックミュージシャンだった忌野清志郎が亡くなりま
した。享年58歳でした。

(あえて敬称をつけません。キヨシローは「清志郎さん」であってほしく
ないと思います)

お悔やみの言葉など言っても「バカなこと言ってんじゃねーぜ、ベイベー」
みたいに言われそうなのであえて言いませんが、生き方自体がロックだっ
た彼を失ったのは非常に残念なことです。

さて、この忌野清志郎の歌の一つに「多摩蘭坂」という曲があります。

YouTube - RCサクセション 多摩蘭坂
http://www.youtube.com/watch?v=DqX1Bc7m1Cw
多摩蘭坂 RCサクセション 歌詞情報 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND37591/index.html

|多摩蘭坂を登り切る 手前の坂の
|途中の家を借りて 住んでる

地名を含む歌はほかにもあるかもしれないのですが、多摩蘭坂は「キヨシ
ローの聖地」として特別な位置を占めようとしています。

故・忌野清志郎さんゆかりの地「たまらん坂」-ファンのお供え絶えず - 立川経済新聞
http://tachikawa.keizai.biz/headline/491/

キヨシローが実際に住んでいたということもあり、この坂は新たなゲニウ
ス・ロキを手に入れたということになるのかもしれません。


ところで、この「たまらん坂」の由来ですが、上記の立川経済新聞の記事
では「長い急坂と悪路に学生や、リヤカー・荷車を引く人が「こんな坂た
まらん」と言ったことから「たまらん坂(多摩蘭坂)」と名付けられたと
いう。」と書かれています。

残念ながら、これは誤りです。「たまらん坂」と命名したのは一橋大学の
(当時の)学生たちで、名前まで判明しているのです。

実は、この「たまらん坂」の由来について調べている小説があります。

たまらん坂 武蔵野短篇集
黒井 千次 
http://mediamarker.net/u/kotono8/?asin=4062900173

黒井氏の小説では、RCサクセションの「多摩蘭坂」を耳にした主人公が、
近所のたまらん坂の由来を考え、調べていきます。

最初は新田義貞の軍の落ち武者がこの坂を登って「たまらん」と言ったの
が「多摩蘭坂」の由来ではないかと考えるのですが、この坂自体が、一橋
大学が立川にやってきたころ(昭和の初めごろまで)に雑木林を切り開い
て作られたものであることが判明し、ロマンが打ち砕かれたような気にな
ります。

さらに調べてみると、「坂を登るのに苦労した学生がたまらんと言ったの
が由来」など、立川経済新聞の記事にあるような説がみつかります。そこ
で主人公はさらに、くにたち中央図書館の郷土資料室を訪れます。そこで
決定的な証拠を見つける――という、ノンフィクションに限りなく近い小
説なのです。



というわけで(例のごとく)実際に「たまらん坂」に行ってきました。


国立駅(「国分寺」と「立川」の間ということで名づけられた国鉄駅の駅
名)の南口から、左斜め(南東方向)に伸びる道(旭通り)をまっすぐ歩
いていきます。すると、東西にまっすぐ伸びる通りがあります。そこから
西(右手)にすぐ、一橋大学が見えます。

この国立の街は、一橋大学が大震災の影響で昭和二年に移転してきてから
「学問の街」として発展するようになったのでした。この東西方向にまっ
すぐ伸びる道も、その前後に切り開かれた道なのです。

さて、一橋大学を背に東に向かって歩いていきます。実は、その時点で道
の先に坂が見えています。これが「多摩蘭坂」なのです。

多摩蘭坂に続く道の右手には、一橋大学の「中和寮」があります。

そしてもう少し歩くと、「コープとうきょう たまらん坂店」が現われま
す。非常にゆるやかですが、このあたりから登り坂になっていきます。坂
の最初がどのあたりか、正確には言いづらいのですが、コープとうきょう
の手前の信号あたりがたまらん坂の起点となるのではないかと思います。

コープとうきょうの向かいには、洋服のお直し「布工房」たまらん坂店 
という小さなお店もありました。

そして、コープとうきょうを過ぎてすぐに交差点があります。このあたり
で国立市から国分寺市に入ります。

この国分寺市に入ってすぐの交差点の石垣に、国分寺市が「たまらん坂」
の解説柱を立てています。

「この坂は、国立から国分寺に通ずる街道途中の国分寺市境にあたります。
大正時代国立の学園都市開発の際、国立と国分寺をつなぐ道路をつくるた
めに、段丘を切り開いてできた坂です。諸説ありますが、一橋大学の学生
が、『たまらん、たまらん』と言って上ったとか、大八車やリヤカーをひ
く人が、『こんな坂いやだ、たまらん』といったことからこの名がついた
と言われています。当字で「多摩蘭坂」とも書きます。」

(坂の名前の由来は、実はちょっと違っています)

この解説柱の周囲に、キヨシロー追悼の花束やメッセージや色紙や写真が
きれいに並べられていました。どうやら地元の管理人さんがいるらしく、
雨が降るようなときには濡れないように対応されているようです。

キヨシローがかつて住んでいたこともある「たまらん坂」。昭和のはじめ
に生まれた坂は、キヨシローの音楽とともに生きることになるようです。

ところで、このキヨシローの交差点から、坂は本格的に傾斜し始めます。
ここは武蔵野台地の国分寺崖線に当たり、段差があるところに道が直交し
ているのです。

交差点から坂の上まで、今は特に道が出ていません。交差点はほとんど坂
のふもとなので、「多摩蘭坂を登り切る 手前の坂の途中の家」というの
がどのあたりなのか、今は面影も残っていません。

坂を登り切ったところに「ロイヤル多摩蘭坂」というマンションがありま
す。その手前の石垣にもキヨシロー追悼のメッセージが書き込まれていま
した。

さて、坂を上るととたんに道は平らになります。その先を少し進むと、京
王バスの「多摩蘭坂」バス停があります。南側のバス停は、ディスカウン
トショップ「ジェイソン」の前。ちょうどコープとうきょう手前の交差点
から、ジェイソンまでが「多摩蘭坂」の範囲です。坂自体は150メートルく
らい、前後を挟んでも200メートルくらいの短い坂です。

おそらく、キヨシローがここに住まなかったら、そして歌に歌わなかった
ら、多摩蘭坂がこんなに意識されることはなかったでしょう。


さて、この「たまらん坂」の由来について書かれている「国立・あの頃」
という非売品の本が、くにたち中央図書館にあるということが、黒井千次
の小説に書かれています。わたしもこのたまらん坂を下りて、中央図書館
に向かいました。

小説では2階にあった郷土資料室は、今、3階にありました。そして、少し
探すと『国立・あの頃』が見つかりました。

編集発行 国立パイオニア会
昭和四十七年十一月五日発行

どうやら、一橋大学の卒業生の思い出文集みたいなものです。
昭和三年の節に、加納太郎氏の「たまらん坂その他」という文章があり、
巻末に近い昭和五年の節に、吉井卓氏の「多摩蘭坂物語」という文章があ
ります。そして、ここに「たまらん坂と命名したのは自分たちだ」と高ら
かに宣言されていたのです。
(黒井氏の小説では、著者名は頭文字で伏せてあります)

大八車やリヤカーは関係ありません。一橋大学の学生たち(当時)が名づ
け、それが地元で何十年間にわたって定着してきたのです。
(この文章の冒頭で、一橋大学のことをしつこく書いていたのは、この伏
線でありました。)

地名がこうして生まれるという実例の一つがここにあります。非常に重要
な資料ですが、非売品でなかなか読めないと思いますので、特別にこちら
に再録させていただくこととします。

ただし、この「当事者」の記録においても、多摩蘭坂の由来は微妙に違っ
ています。記憶というものがいかに曖昧になっていくのかということもう
かがわれて、非常に興味深い記録となっています。

――――――――――――――――――――――――――――
たまらん坂その他

加納太郎

「たまらん坂」に就ては昭和三十三年十月号の如水会報に書いたことがあ
る。三十三年と言えば既に十数年前、それすら忘却の彼方に埋もれてしま
った。この度、大森恒太郎君の好意でその時の記事をリコピーして頂いた
ので、読んでみると、卒業後三十年に当るその年の八月、私はたまたま国
立を訪れて思出の「たまらん坂」を多摩蘭坂の名に探し当てて、その名が
三十年来伝承されて来たことを知り、懐しさと愉快に。こみ上げる感情を
爆発させたのであった。そうして私は多摩蘭坂などと当て字でなく、若し
漢字を用うるならば「堪らん坂」と書くべきだと主張した。
 それは私達が名付け親と自負するからである。その時の文は次のようで
ある。

 国立は昭和二年四月先ず専門部が一橋から移され、私達は三年生として
最初にこの国立の土を踏んだ。箱根土地(株)が南向のなだらかなスロー
プをキャッチフレーズとして、学園都市建設を夢みその計画の奔りとして
招致されたのである。当時は駅と駅前の箱根土地の案内所と右側に三軒、
左側に二軒ほど見本建築があり、他に数軒の下宿屋と商店、右方の立川へ
行く道に国立音楽学校と郵便局があった。後は皆雑木林で私達の校舎もそ
の中にあった。「たまらん坂」は駅から左へ約二百米位、国分寺に向う為
に雑木を切り開いた赤土の坂でまだ名は無かった。
 私達の通学は中央線の八王寺行の汽車で始まった。一駅手前の国分寺迄
は省線(国電の前名)があり、汽車に乗り遅れると、数分違いで到着する
省線で国分寺迄来て、駅前に待っているシボレーかフォードかの(まだ国
産車はなかった)一台だけの車に乗り合わせるか、或は約四キロを強行す
るかになる。漸く「たまらん坂」迄来ると校舎が見え、校舎の左裏側へ通
ずる斜の道が開ける。ちょうど坂のあたりへ来る頃、始業の鐘がカンカン
と鳴り、私達は最後のダッシュをかけるのが常であった。それでも天気の
好い日は宜いが、雨降りや雨上りの時は、柔い赤土が粘って一足毎にから
みつく、折柄、鐘は鳴る、心は焦せるが走れない。靴は赤土で膨れ上って
ますます重くなり、ズボンは泥まみれて、やっと教室近くまで来ると、も
う出欠をとる先生の声が聞える。飛び込みさま、
「ハッハイ」
 辛うじて席に着くと、吐息絶え絶え思わず嘆く。
「こいつあ、堪らん」
 これが「たまらん坂」命名の発祥である。

 私達の誰が初めに口にしたかは判らない。「こいつあ、たまらん」は、
まったく実感であり、切実であったから、私達は異議なく「たまらん坂」
と唱同した。今にして「たまらん坂」の名称が、れんめんとして伝承され
公記されることになったのは、恐らく私達以后何年間かの学生達も、この
「たまらん坂」に同じように悩まされ、また愚痴ったからであろう。
 国立第一回の卒業生として巣立った私達二百三十名の記念アルバムに、
この難渋の坂「たまらん坂」写真が載っている。よくご覧下さい。
 尚、報に依れば「たまらん坂」は戦時中に学生の勤労勣員で道巾が拡げ
られたとのこと、今は繁華な商店街である。
(後略)

――――――――――――――――――――――――――――
多摩蘭坂物語

吉井 卓

 国立から国分寺に通ずる街道の途中、ちょうど国立と国分寺の境にあた
る地点に坂がある。以前はかなり急な坂だったのだが、今は、きれいに舗
装されて、ゆるやかに傾斜した道路になっていて、坂という感じではない。
ところが、この坂には、以前から多摩蘭坂という名がついていた。現に、
今でも、この坂の上のあたりを多摩蘭坂という地名で呼んでいるらしいし、
多摩蘭坂というバスの停留所もあるというから、多摩蘭坂の坂の名前が残
っていることは間違いない。
 ところで、この多摩蘭坂は遠い昔からあった坂なのかというと、実はそ
うではないのである。この坂は、国立の学園都市が出来たときに、国立と
国分寺をつなぐ道路をつくるために、丘を切り開いて出来た坂であって、
多摩蘭坂という坂の名前も誰かが後でつけたものである。そこで、問題は、
この坂の名前のことである。誰がいったいこんな坂の名前をつけたのであ
ろうか。国立に学んだという人であれば、一応、誰でも知りたいと思うに
ちがいない。この一文は、そうした疑問に答えるために、この坂の名の生
まれた由来を物語ろうというのである。
 まず、この物語の主人公を明かしておくことにしよう。実を申せば、こ
の坂の名をつけたのは、何を隠そう、私たちクラスメートの仲間である。
はっきり名乗りをあげれば、菊地、本沢、藤田、恩田、井熊、小林、新井、
それに私を加えた八人のメンバーである。この八人が多摩蘭坂の名つけ親
であることに間違いない。私たちは、昭和二年の春入学し、国立のパイオ
ニアとして、新校舎に一番乗りしたクラスの仲間である。モれがまた、ど
うして、坂の名前などつけるようなことになったかということである。そ
れには一つのエピソードがある。
 物語は四十数年前、私たちの学生生活華やかなりし頃にさかのぼる。私
たちは、その頃、この多摩蘭坂の坂の上の下宿屋に巣をくって、青春を謳
歌していたのである。ところが、この物語を進めるためには、私たちがど
うしてこの坂の上に下宿するようになったか、そのいきさつから語らねば
ならない。
 私たちは、入学した当初、国立の鳩屋という寮に下宿した、ところが、
仲間四、五人で相談して、鳩屋を出てどこかお百姓さんの家でも借りて下
宿しようではないかということになり、下宿探しをはじめた。そして、付
近の農家を探し廻った末、国立に近い国分寺村内藤新田の田中さんという
お百姓さんを探しあてたのである。田中さんは私たちの話を聞き、早速私
たちの希望を受け入れて、急造の下宿屋を造ってやろうということになり、
後に多摩蘭坂と名をつけたこの坂の上に、八人分の宿舎を新築してくれた
のである。この宿舎は、田中さんの母屋から二〇〇米ばかり離れていて、
国立から国分寺に通ずる道路に沿うていた。そこで私たちは、ハトヤの脱
退組に三、四人のメンバーを加えて、八人がこの坂の上の宿舎にたむろす
ことになったのである。
 田中さんの家は、この付近ではかなりの旧家だったようである。大きな
お百姓さんだった。面白いことには、田中さんの家には、正副二人の奥さ
んがいて、それぞれ数人の子どもがあって、しかも、一家が団彙して平和
に暮していたのである。こうした家族制は、この地方の旧い慣習だったの
かもしれない。私たちの宿舎が出来てからは、副奥さんが私たちの方へ来
て住むことになった。私たちの宿舎のすぐ側に家が建てられ、子どもたち
も移ってきた。子どもは、十七、八歳の青年を頭に、十五、六歳のおたっ
ちゃんという娘と、チャボ(三郎のなまり?)という四、五歳の男の子の
三人がいた。お母さんが私たちの下宿の管理にあたり、掃除や食事時の世
話はおたっちゃんの役目だった。おたっちゃんは、ほっぺたの赤い元気そ
うな田舎娘だったが、おたっちゃんの存在は、殺風景な私たちの生活に楽
しいうるおいを与えてくれるものであった。
 田園の下宿生活は極めて快適であった。付近には、武蔵野特有の雑木林
があり、畑には陸稲が作られ、広い芋畑があった。私たちは、そうした雑
木林の中や畑の畔道を子どもたちのように歩き廻った。国分寺や府中の町
の方まで散歩に出かけた。立川や日野のあたりまで遠出することもあった。
八王寺まで酒を買いに出かけたこともある。そして、その晩は宿舎ですき
焼をつついて酒を飲み、酔って歌い、歌って踊り、心ゆくまで青春の気を
発散させたものである。
 東京にもよく出かけた。東京で遊び過ぎて、中央線の最終列車に乗り遅
れると、省線電車で帰るより外なかった。当時電車の終点は国分寺駅だっ
たので、国分寺駅で降りて、宿舎まで歩いて帰らねばならない。国分寺駅
の前を少し離れると、もう人家はなく、雑木林と畑の続いた中の一本道だ
った。闇夜の晩など一人で帰るのはあまりよい気持ちのものではない。大
きな声で歌い、勇気を出して、まっしぐらに宿舎に急ぐのであった。今は、
このあたりは、すっかり賑やかな市街になってしまって、当時のことなど
想像することも出来ぬような激変ぶりである。
 宿舎の周囲には、一面にコスモスが群がり生えていた。秋の日射しを浴
びて、乱れ咲いているコスモスの花には、えもいわれぬ可憐な趣があった。
競い咲くコスモスの花を見ているとき、私たちは、われわれの青春がくす
ぐられるような感覚を覚えた。
 あるよく晴れた秋の日、数人の女学生が坂を上ってきた。そして、私た
ちの宿舎の前で立ちどまった。国立から国分寺まで歩いて帰る音楽学校の
女生徒たちであった。長い袴をはいた着物姿がいかにも女学生らしく美し
く感じられた。彼女たちは、宿舎の前に群がり咲くコスモスの花を摘んで
いるのである。秋の日に映えて、コスモスの可憐な美しさが、一層彼女た
ちを麗しいものにした。私たちは部屋の中から、息を殺して、さとられぬ
ようにじっと彼女たちを見つめていた。やがて、彼女たちは手一杯にコス
モスの花を摘み終わって、国分寺の方へ立ち去って行った。
 このとき、突然、宿舎の一角から大きな叫び声が起った。
「わしゃ もう たまらん」
「もう たまらん」
 まさしく菊地の声であった。菊地は、私たちの仲間の中では一番の年輩
だった。偉大な体格の持ち主で、剣道の選手だった。このとき以来、菊地
は若い女性を見ると、
「わしゃ もう たまらん」
というのが口ぐせのようになった。「たまらん」という言葉、それは、青
春の感情の極限を表現するものだったのかもしれない。それからは、「た
まらん」という言葉は、菊地だけでなく、私たちみんなの合い言葉のよう
になってしまった。
 学校からの帰り、この坂にさしかかったとき、私たちは、この坂を上っ
てくる女学生たちのことを連想した。そして思わず叫んだ。
「もう たまらん」
 おかしなことに、この坂に来ると自然に、「たまらん」という言葉が口
に出てしまう。まさに、この坂は「たまらん坂」になってしまったのであ
る。
 そこで、いっそ、この坂に「たまらん坂」という名前をつけようではな
いかということになったのだが、「たまらん」では趣がないので、格好の
よい字をあてはめることにした。この地方の名から「多摩」をとり、北大
の校歌にちなむ鈴蘭の「蘭」の字をとって、「多摩蘭坂」と書くことにし
た。私たちは、厳かに、「多摩蘭坂」の名を宣言した。そして、岡を切り
開いた両側の赤土の壁に大きな字で多摩蘭坂と刻みこんだ。
 多摩蘭坂の名はこのようにして生まれた。これこそ間違いなく多摩蘭坂
の名の起源である。この真相を知るものは、八人の外にはいないはずであ
る。以前、経済新聞の随筆欄で、多摩蘭坂の名をつけたのは一ツ橋の学生
であるといったようなことを書いた文章を読んだことがあるが、これは、
おそらく誰かが、私たちの仲間の者の話を聞いて新聞に投稿したものだと
思う。
 このようにして、私たちは、多摩蘭坂の名を残して、多感なりし学生生
活に別れを告げ、この坂の上の宿舎を去った。それから四十余年の歳月が
流れた。多摩蘭坂のあたりの様相は一変し、一帯は繁華な市街に変貌した。
だが、多摩蘭坂の名は、今も伝えられ、地名として残っていることは前に
も述べた。
 私は、最近、二度ばかりこの多摩蘭坂を自動車で通った。うっかりする
と気がつかずに通り過ぎてしまうような坂になってしまったが、私は、注
意してこの坂の上のあたりに車を止め、この辺に、田中さんといううちが
ないか尋ねてみた。ところが、田中さんの家はあった。「多摩蘭ストア」
という店である。ちょうど、私たちの宿舎のあった跡にこの店は建ってい
る。店の主人の田中さんに会っていろいろ話をしてみると、この田中さん
は、かつて私たちがこの場所に下宿をしていた頃に、チャボと呼んで可愛
がっていた幼い子、その人であった。田中さんは、当時のことは全然記憶
にないようだが、私の話を聞いてなつかしく感じたようであった。コスモ
スの花が乱れ咲いていたのもこのあたりであった。コスモスの花を摘んだ
女学生たちのことが目に浮かぶ。往時を思い起し、感無量なものがあった。
 当時の母屋の主人の田中さんや、副奥さんは、勿論亡き人になっていた。
おたつちゃんが坂のすぐ下に住んでいると聞いたので早速訪ねた。おたつ
ちゃんは立派な家に住んでいた。突然の訪れをよろこんでくれた。四十数
年ぶりの対面である。往年のほっぺたの赤い少女は、いまは、髪が白くなっ
て、ちょっとみるとおばあさんのように老けて見えるが、やはり昔の面影
は残っていた。昔話は尽きることなく、なつかしく楽しい思いであった。
 多摩蘭坂物語は、これでおしまいである。私たちの仲間八人のうち、新
井が亡くなった外は皆達者である。好漢菊地が自動車事故で負傷し、多少
の後遺症は残ったが、恢復して元気になったので、先年、私たち多摩蘭坂
の仲間で、干葉の菊地の家を訪ねた。
 この一文は仲間の人たちも読んでくれるであろうが、若し私の記憶に誤
りがあったら訂正していただきたい。

――――――――――――――――――――――――――――

女学生に「こりゃ たまらん」と叫んだ学生が坂の名前の由来となったの
でした。そして、おそらくその「たまらん」の語感は、キヨシローが歌に
歌ったイメージに受け継がれていたのではないかと思われます。



─────────────────────────────────
■ 編集後記
─────────────────────────────────

ところで、さだまさしは多数の場所にちなんだ歌を作っていますが(しか
もかなり具体的な地名を挙げる)、将来、さだまさしの歌にゆかりの地と
いうのはどこが選ばれるのでしょうか。タイトルそのものでも無縁坂、縁
切寺、もちろん精霊流しの長崎などなど……。


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料メルマガですから、読者の皆さんの声は最大限に生かしたいと考えてい
ます。よろしくお願いいたします。


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