お世話になります。 短歌の純響社です。 この度、オンライン上にて短歌時評やエッセイなど、 多くの読み物を無料でご提供させていただくことになりました。 こちらのメールマガジンでは、主に短歌時評の更新のご案内をさせていただきます。 また、当短歌時評は不定期更新のため、ホームページを更新後、すぐに時評の記事を転載させていただきます。 今後ともWEBサイト、並びに「短歌苑」をご愛顧いただきますよう、よろしくお願いいたします。 純響社代表 山下雅人 3月16日…短歌時評更新 --------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- この時評、「ちゃんとしてる」? こちらの「純響社WEB」から、「ゆるい感じの短歌時評を」ということでご依頼をいただきました。 はて、ネット上で短歌時評? しかも万来舎の江田浩司さんの連載評論や、青磁社さんの伝統ある「週刊時評」があるのにまた短歌時評? これだけ時評ブームなのに、また短歌時評? オフィシャリティはどうなる??? 等々、いろいろと考えたあげく、とりあえず書いてみるのが僕らしいか、と思いながらお引き受けすることにしました。 かの枡野浩一さんは、「ネットの言葉は「文章」と「おしゃべり」の間くらいに位置するものだと思う。」と言う名言をお書きになっていらっしゃいます。 ネット上で時評をやる。 第一回目は、このことの意味について考えてみましょう。 もうインターネット、と言う場が短歌の世界にそれなりに普及してから、けっこう時間がたっているのは、ここをお読みになる皆さんならご存じでしょう。 しかし、ネットで発言された言葉や短歌の数々が、例えば「有名歌人」の文章に引用されたり、総合誌に取り上げられるまでには相当距離がある、というのも、おそらくご存じだろうと思います。 「ちゃんとした場所」で取り上げられるためには、やっぱり「おしゃべり」ぐらいではいかん、ということです。 さて、それを踏まえた上で、ここから「おしゃべり」するね。 でも「おしゃべり」には「おしゃべり」の意味もけっこうあって、その中から生産的な話も生まれたり、ときどき「ちゃんとした場所」よりはるかに面白そうなことも起こったりする。 僕もこの場での時評は、基本的にいわゆる「ちゃんとした時評」にはならないと思う。 性格も気ままなので、いきなり「である」調になったり、「ですます」調になったりすることも、あるかもしれないし。(今なってるね) さっきから、僕は繰り返し「ちゃんとした場所」とか、「オフィシャリティ」ということを口にしている。 どういうことか。 歌人に限らず、名前を出した書き手というのは、書いたものに対しては「責任」を持たなければいけない。これは不文律だ。 要するに「ちゃんと書いたものを見せる以上、残さなきゃいけない」ということだよね。この文章も、取り消しとか訂正とかなし。 もともと、個人ブログでの発信や、ホームページでの発信は、そういう意味ではシステムとして、全く「ちゃんとしていない」。 なぜなら、「あ、すごくちゃんとしてる文章書いていそうな人だな」 と思って、僕がその人のブログを印刷メディアに引用したとする。 しかし、雑誌が出た翌日になって、ブログやホームページの引用部分が変えられていたり、ブログごとその人によって消されていたりしたら、どうなるだろう。 引用した側も読む側も、「あれ、元がないじゃん。。。」という事態に陥ってしまい、雑誌だけが残る、なんてことになると、ちょっと後から見てまずいことになってしまわないか。 残念ながら、ブログもホームページも、mixiも、今流行のツイッターも、もうwikipediaとか挙げればキリがないけど、「元」として信頼できるものじゃ全然ないんですよ。「消せる可能性がある」という時点で。 ちょっと以前の話になるが、2008年の「みぎわ」4月号のなかで斉藤真伸さんが、荻原裕幸さんのブログから引用して文章を書いていて、短歌の世界で「おっ、とうとう引用したか」みたいな雰囲気になったことがある。 今も、短歌の世界に影響を与えている個人ページというのは、荻原裕幸さんの仕事を始めとして、「継続的にやっている。消されない」という信頼性を「人格・個人の影響力」によって担保しているケースが非常に多いようだ。 一応、紙の方が残る確率は客観的に見ても高いが、ネットの文章は残らない可能性の方がはるかに高いから、(しかも個人的な事情ってやつで)、じゃあ、「おしゃべり」なんだけど残る、って言うのはどうすればいいんだろう。 簡単な話で、そのおしゃべりが、「どうみても残ってるでしょ」って状態にすればいい、ってことだよね。 しかも、「ちゃんと残す」って自分が勝手に約束するんじゃなくて、「これは、どこからどう見ても、客観的に見ても残ってるよね」っていう状態に、なればいいんだ。 「君、言ったでしょ?」 って言って、あとから「いえいえ、そんなことは言ってません」 って訂正するのは人間社会にはよくあるけど、物書きにはなしだ。 そのための手段を、純響社さんでは講じて下さるというので、安心して「おしゃべり」していくことにする。 自分で消そうとしても、恥ずかしいシャウトをして後から「ごめん」と思っても、それが全部「みんな残る」のよ。書き手である僕の意志とは関係なく。 だから、引用もしたい放題。どうぞ、批判もしたい放題。紙でもネットでも全然構いませんよ。 それが、この時評のスタンスだ。 僕は「カタイ」文章を書くのも好きだけど、めちゃくちゃ「おしゃべり」をするのも好き。 なので、「おしゃべりでありながら、なおかつちゃんと残りますよ」 という時評を、目指していこうか。 どうも「時評」と言うとムズカシイものばっかりで、「濃い人じゃないとよくわからない」と言うのもスタンダードになっているような気もするので。 ということで、タイトルはカタイけど、やってることはゆるい。 しかし、影響力はちょっとはあるぞ、みたいな方向を目指しますね。 一応、これは稿料をもらってやる僕の「仕事」。 不定期連載みたいですが、どうぞよろしく。 --------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 執筆者…(西巻真 歌人。1978年生まれ 2007年度未来年間賞受賞 2009年度未来賞受賞 加藤治郎に師事) ※本メールマガジンの発行を持って、弊社短歌時評は確定版となります。 以後の改変、削除等は行いませんので、ご引用される場合は本メールマガジンをご参照ください。
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