相馬市長立谷秀清メールマガジン

相馬市長立谷秀清メールマガジン 2017/03/28号 No.305

◆━━━ 相馬市長立谷秀清メールマガジン 2017/03/28号 No.305 ━━━◆


----------------------------------------------------------------------

 みなさんこんにちは。相馬市長の立谷秀清です。

 今回は、私の書き下ろしエッセー「じい様は自転車に盛りだくさんの野菜を

積んで」をお届けします。

----------------------------------------------------------------------

●じい様は自転車に盛りだくさんの野菜を積んで  

 88歳になる私の母は、相馬市北飯淵の旧い農家の次女。

 昭和24年に相馬の海岸沿いの味噌醤油屋だった立谷家に嫁いで来て以来、海

岸から100mほどの自宅で暮らしてきたが、10年前に丘陵地帯にある緑ヶ丘団

地に移り隠居生活を送っていた。震災直後、地震津波を心配した父は本家の様

子を見に行こうとしたが、避難する人たちの車の渋滞に遭い、引き返したお陰

で津波をまぬがれた。

 母は歳をとるにつれて子供のころの農作業を懐かしく思うらしい。隠居家の

30坪ほどの小さな庭に、わずかばかりの野菜を植えて、畑仕事が楽しいと言う。

農家の娘だった母の気持ちは少女時代に戻っている。


 昭和17年。母方の祖父は長女を旧・保原町(現伊達市保原地区)に嫁がせた。

交通機関もない時代だったから、阿武隈山地を越えての嫁入りは何かにつけて

難儀だったろう。それでも祖父は、娘可愛さに、季節ごとに野菜を自転車いっ

ぱいに積んで保原町の娘の家まで届けに通った。

 当時の中村街道(現国道115号線。昭和38年に2級国道に指定)はつづら折り

の小径が続き、急峻な「七曲がり」は、わずかばかりの交通量しかなかった自

動車を時として谷底に飲み込んだ。

 今では考えられないような話だが、祖父はよほど娘の笑顔が見たかったのだ

ろう。一日がかりで自転車を押し、娘の家に数日滞在した後、ふたたび阿武隈

山地を上り相馬への帰途についた。


 昭和42年。私が16歳の高校一年の夏休み、自転車で仙台市を出発し、保原町

から国道115号線を辿り阿武隈山地を越えたことがある。当時の115号線は処ど

ころ舗装されていたが、当時の霊山町掛田からの上りはほとんどが砂利道だっ

た。

 8月の暑さもあってすっかりのどが渇いたので、水を飲ませてもらいに立ち

寄った石田小学校の日直の先生に、冷えたキュウリと味噌をごちそうになった。

冷たい水でほこりだらけの顔を洗い、口の中で水気をほとばしりながら砕ける

キュウリの瑞々しさと、赤褐色をした味噌の塩っぽさで生き返った気がした。

50年たった今でも、石田小学校の前を通るときは、心の中でぺこりと頭を下げ

ることにしている。
 
 しかし、その後の上り道のつらさは大変なものだった。私の自転車は当時の

最新型ドロップハンドルで変速機付き。後輪の両側にテントなどの荷物をパン

パンに下げてはいるものの、舗装道路では快適に走った。仙台から伊達町に至

る国道4号線と伊達-保原間は完全舗装だったため、坂道も得意のローギアで難

なく上り切ったが、阿武隈山地の上りの砂利道にはまるで通用しなかった。仕

方なく自転車を降りて押して上ろうにも、頂上の霊山はあまりにも遠かった。

 ようやく玉野地区から下り坂になったころは陽もすっかり暮れて、砂利道な

のでスピードも出せないため自転車のライトの灯りもままならなかった。「七

曲がり」では砂利に車輪をとられ、落車して足に傷を負ってしまった。痛さと

心細さで泣きそうになりながら、「祖父もこの道を自転車で相馬に向かったの

だ」。そう言い聞かせながら自分を励ました。原釜の親の家に着いたのは夜の

10時。仙台の高校で夏期講習を受けているはずの息子が、危ない自転車旅行の

果てに、夜中に醤油屋の工場で足の泥を洗っている姿を見た父には、えらい剣

幕で怒られた。


 その後福島医大に進学した私には、福島盆地の蒸し暑さは拷問のようだった。

 あの阿武隈山地の向こうには生まれ育った相馬原釜の海があり、夏には心地

よい浜風が吹き渡る。いっそのこと、あの山々にV字型の切り通しを造り、原

釜の浜風をここまで吹き渡らせることは出来ないものだろうか?


 平成7年。県議会議員に当選した私の、最初の6月議会での満を侍しての初質

問は、115号線の急峻な「七曲がり」を高規格幹線道路で直線に出来ないだろ

うか?というものだった。 

 私の高校時代と違って、既に全部が立派に舗装されていたし、まだバブルが

残っている時代だったから車も豪華だったしガソリンも豊富だった。しかし、

改善されたとはいえ「七曲がり」は交通の難所で、特に救急車で通りようもの

ならば、遠心力で患者の体が斜めになるばかりか、点滴のバッグも横を向いた

ままだった。

 私が子供時代に遊んだ原釜の海岸は、既に相馬港の一号埠頭としてコンクリ

ートの岸壁になっていた。しかし、せっかくの相馬港も「七曲がり」での荷崩

れと、カーブでコンテナトラックがすれ違えないため、福島県北地方の産業振

興の役に立っていなかった。


 「東北中央道を早く造ってくれ」などと大それたことは言わない。しかし、

救急医療と、相馬・福島地域の産業振興の為に、せめて相馬から阿武隈山地の

頂上に向かう交通の難所を高規格幹線道路で繋げるよう、県としても本気で取

り組んでほしい。それが質問の趣旨だったが、その2年後。思いが少しでも届

いたのか、115号線の相馬山上地区からの上りの区間を、「阿武隈東道路」と

して調査費が予算化された。


 あれから20年。

 東日本大震災という私の人生の最大の苦難は、いや未だ終わった訳ではない

のだが、形を変えて私に大きな慰めをもたらせてくれた。3月26日の復興支援

道路としての阿武隈東道路の開通式は、積年の悲願を叶えてくれた心の底から

の歓びだった。石井国土交通大臣によれば、平成32年度には原釜の浜風が福島

まで届くという。

 スピーチを求められた私は、個人的な話で申し訳がないと思いながらも、75

年前の娘を想う祖父の気持ちを語った。懐かしい祖父や叔母の笑顔が脳裏を過

り、思わず涙が出そうになったが、震災で死んでいった人たちを想い、マイク

を握りしめて堪えた。


 でも、まるで夢のようだ。


----------------------------------------------------------------------

■発行:福島県相馬市 企画政策部秘書課
 TEL 0244-37-2115

●このメルマガに関するお問い合わせやご意見メールは、
 info@city.soma.fukushima.jp

●マガジンの登録・解除は、
 パソコンでご覧の方は http://www.city.soma.fukushima.jp/
 携帯電話でご覧の方は http://mobile.mag2.com/mm/M0094208.html

●メールアドレスの変更は、配信解除してから新規登録してください。

このメールマガジンは、インターネットの本屋さん『まぐまぐ』を利用して発
行しています。
 http://www.mag2.com/

----------------------------------------------------------------------

相馬市長立谷秀清メールマガジン

発行周期: 週刊 最新号:  2017/03/28 部数:  2,414部

ついでに読みたい

相馬市長立谷秀清メールマガジン

発行周期:  週刊 最新号:  2017/03/28 部数:  2,414部

他のメルマガを読む