こころをめぐる話-内観に学ぶ

彼岸からの景色

カテゴリー: 2016年06月15日
こころをめぐる話ー内観に学ぶ NO129
                              彼岸からの景色
                                        
                発行者 白金台内観研修所 本山 陽一
                                    Mail to: zan25224@nifty.com
                       http://www.shirokanedai-naikan.com/index.html

最近、「死」について改めて考えている。直接のキッカケは、今年10月1日
に法政大学で開催される日本内観学会大会のシンポジストとして依頼されたこ
とにある。シンポジウムのテーマが「死に臨むことと内観」なので、抄録集に
載せる原稿依頼に応える必要から「死」について考えるようになったのである。
まるで、忙しい日常に流されていく人生の旅路から途中下車して、親しかった
旧友を訪ねるような気分になっているのだ。

内観法にとって「死」の問題は、内観を深めるためには欠かせない必須条件で
あり、最も重要なテーマである。内観創始者・吉本伊信先生の口癖は、「今晩
死ぬかも知れないから」であって、先生の日常生活は、この口癖を前提の上に
思考し、行動されていた。たとえば、誰かに用事を頼まれると「今晩死ぬかも
しれないから」とすぐに行動を起こされたし、誰かと約束をする時にも確約は
なさらず、「それまで命があったら」と前置きをして約束されていた。

食卓には、「死」とご自身で書いた色紙を置き、常に「死」を意識する工夫を
されていた。「仏法に明日なし」は、先生の好まれた言葉であった。そんな先
生の影響を受けて、私も先生にいただいた「死」の色紙をずーと食卓に置き、
常に「死」を意識した生活を心がけてきた。我が家では、「死」は食卓の会話
に自然に出てくる親しい概念だった。ところが、「死」の概念が当たり前にな
りすぎたせいか、いつの間にか「死」の概念を意識しなくなっていた。

今回、このテーマをいただいて改めて「死」を意識するようになったわけであ
る。内観法の究極的な問いかけは、「今死んだら、どうなるか?」であって、
内観を深める一番の方法は、「死をとりつめる」ということだ、と先生はおっ
しゃる。この「とりつめる」の意味は、いつも気にしている、あるいは、いつ
も考えているという意味で、常に「死」を意識し、向き合い、身体全体で「死」
を実感しようとするものある。

内観法の「死」の問題は、単に生物学的な「死」だけでなく、「生」に対する
「死」という意味もある。それは、「自分とは何か」、「存在とは何か」ある
いは「命とは何か」という、今を生きる私たちの本質的な問題や究極の幸福を
考える上で「死」は欠かせないテーマだからである。内観法は、この「真理」
とも呼ばれる生死を超えた本質的な問題を解決するために、自らを知る具体的
な方法であり、その「真理」を体得するための近道なのである。

釈尊は当初、悟りの体験は言葉にできるものではなく、話しても理解されない
だろうと他の人に話すつもりはなかったようで、梵天に請われて初めて自らの
体験を話し始められた、と伝えらえている。したがって、釈尊の話し方は、
「真理」そのものを言葉にするのではなく、相手のレベルや状態に合わせて話
し方や内容を変える対機説法という方法で「真理」を感じさせようとするもの
だったと言われている。

そのために、後で言葉だけで解釈すると、矛盾や飛躍を感じる内容もあったよ
うだ。釈尊没後、弟子たちが、釈尊の話したことを編集していったものが経典
になった。正に言葉だけが残ったわけで、対機説法で話された釈尊の本当の意
図はわかりにくくなった。さらに中国に渡ると、中国人はインド人の経典をす
べて漢訳して理解しようとしたので、ますます言葉だけが一人歩きするように
なった。

それだけでなく、偽経と言われる中国人が独自に撰述したお経も作られた。そ
こで、漢訳された膨大な経典の中で、釈尊が本当に言いたかったことはどの経
典に書かれているか、ということが次の課題になった。さまざまな議論や解釈
の中で、次第にその重視する経典に違いが生じてきた。この経典の選択の違い
によって生まれたのが宗派になったと言われている。

一方、釈尊の体験は言葉にできないので、経典に書かれている教義は真理その
ものではなく、経典の教義は方便であって「真理」は言葉にではなく経典の行
間にあるという考え方も出てきた。教義はかたちに表されたもので、本当に伝
えたいことはその裏にあるというわけである。この顕密の考え方から生まれた
代表的なものが、密教と禅宗だろう。

密教は、のちに民間的呪術信仰と交わって祈禱色が強くなったようだが、禅宗
は現代までその伝統を踏襲している。心こそ真実と考える禅宗では、「教外別
伝 不立文字 直指人心 以心伝心」と唱え、言葉を媒体にせず直接に心(真
理)を伝える体験を重視した。方法論は異なるが、この体験を重視する考え方
は親鸞も同じで、親鸞も救われる「証」(あかし)としての体験を重視した。
それは吉本先生も同じ考えで、内観法も理論よりも体験を重視している。

親鸞と吉本先生、お二人とも自らの深い宗教体験を根拠にしていたことは間違
いないが、こういう「証」を尊ぶ仏教の伝統が背景にあったことが、お二人の
個人的体験を後押しして普遍的な問題にまで昇華できたと推察される。この言
葉と体験の関係は、言葉そのものに「真理」はないが、言葉がなければ「真理」
は伝えられないという絶妙な関係にある。概念としての「死」と生物学的な
「死」の関係もこれに似ている。

「生」と「死」の問題を、内観を通じて約35年間考え続けてきた私にとって、
生死の問題は、概念としてはほとんど解決された、と勝手に思い込んでいる。
ただ、この年になって実際の死が近づいてくると、この世の景色や自分自身が
だんだん愛おしく感じられるようになり、今更のように自らの執着心の強さを
思い知らされ、情念としては何も変わらない自分を今日も確認するばかりである。
 

こころをめぐる話-内観に学ぶ

発行周期: 不定期 最新号:  2018/07/24 部数:  612部

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