歌舞伎素人講釈

メルマガ「歌舞伎素人講釈」第490号

カテゴリー: 2019年01月27日
*******************平成31年1月27日発行****
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    メルマガ「歌舞伎素人講釈」  第490号
                       
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こんにちは、吉之助です。寒くなりましたねえ。

本年4月末で平成と云う時代が終わります。いろんな方面で平成30年を振
り返る企画が行われると思いますが、「歌舞伎素人講釈」でも便乗企画とし
て、サイトの「雑談」に「平成歌舞伎の30年」という連載をゆっくりペー
スで連載しています。現在連載は未完ですが、突然途切れるように終わるか
も知れません。個人的な思い出話なので、そのようにお読みください。平成
歌舞伎の評価はもう少し時代を隔てないと客観的な評価はできないと思いま
す。吉之助にとっては、平成時代は、結局、昭和歌舞伎を自分のなかに落と
し込むための時期でした。文中に昭和がずいぶん顔を出しているのは、その
ためだろうと思います。


ーーー<今回の話題>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


○平成歌舞伎の30年~吉之助流・平成歌舞伎回顧


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1)平成歌舞伎のふたつの節目

本年(平成31年・2019)4月末に今上天皇が退位されて平成の時代が
終わり、翌・5月1日には新天皇が即位されて新元号に変わる予定となって
います。ここまでの平成歌舞伎の30年間は、吉之助にとっても、まことに
大きい意味を持ちます。途中仕事の関係で歌舞伎座になかなか行けない時期
もありましたが、吉之助にとって歌舞伎はずっと大切なもので在り続けまし
た。そこでこの機会に平成の30年間の歌舞伎を吉之助なりに振り返ってみ
たいと思うわけです。だらだらと雑談風に綴ります。

個人的に平成歌舞伎の30年を二つの節目を以て考えたいと思います。ひと
つは平成13年(2001)3月31日の六代目中村歌右衛門の死であり、も
うひとつは平成24年(2012)12月5日の十八代目中村勘三郎の死と
云うことになります。一応この節目に沿って平成13年までを前期、平成24
年までを中期、平成30年までを後期ということで話しを進めます。

吉之助としては、歌右衛門の死を以て平成前期を「昭和歌舞伎の終焉」と位
置付けたいと思います。平成7年(1995)4月歌舞伎座で歌右衛門が
「沓手鳥孤城落月」の淀の方を勤めた時に「いつ休演するか分からないので
その場合はご容赦を」というコメントが初日前に出たので、居ても立っても
居られず会社を休んで初日の舞台を観たのが、吉之助にとっての歌右衛門の
生の舞台の最後となりました。(もちろんその後の歌右衛門の舞台もテレビ
映像で見てはいます。)歌右衛門は平成4・5年辺りからどんどん出演が少
なくなって、平成8年(1996)8月国立劇場で1日だけ踊った舞踊「関
寺小町」(残念ながらこの舞台は見ていません)以降舞台に立つことがなか
ったのです。しかし、歌舞伎のなかでの存在感は平成13年3月まで確かに
持続していました。歌右衛門が生きている間は何となく歌舞伎に核(コア)
みたいなものがあって、それで歌舞伎は纏まっていた気がします。歌右衛門
がいなくなって以降、歌舞伎は一気に群雄割拠の時代に入ったということに
なるでしょうか。

平成13年(2001)3月31日の東京の天気は、桜の花が咲くなかに雪
が降り積もり、夜になると雪が降り止んで空に明るく月が見えたと云う、雪
月花が揃った、あれは実に不思議な光景でありました。空を見上げながら
「積恋雪関扉」の舞台が脳裏に浮かんで来て、「歌右衛門が亡くなったんだ
なあ、天は歌右衛門の為に特別な舞台を用意したのだなあ」と感じた方は吉
之助だけではなかっただろうと思います。これはたまたまですが、本サイト
「歌舞伎素人講釈」は平成13年1月に開始されました。このため歌舞伎批
評家としての吉之助は 図らずも「歌右衛門以後」を生きることになったわ
けです。

「歌右衛門以前と以後」ということは、吉之助にとってとても大きい意味を
持ちます。人それぞれに、その人の人生には「以前と以後」という大事な節
目がいくつかあるものだと思います。(吉之助のなかには、クラシック音楽に
なりますが、もうひとつ「カラヤン以前と以後」という節目があります。)
良かれ悪しかれ吉之助の観劇歴では昭和50年代の歌舞伎が身体感覚の基準
となることは仕方がないことです。その昭和50年代の歌舞伎を象徴する存
在が(人によっては異論があるかも知れませんが)吉之助にとっては歌右衛
門でした。したがって「歌右衛門以後」ということは、吉之助にとって歌舞
伎が現在進行形の趣味ではなく・過去形の趣味となったことを意味しました。
注を付けますが、これは現在の歌舞伎が駄目だから興味がないと云っている
のではありません。むしろ逆です。このような現象は、或る思いを以て長く
観劇を続けていれば決して避けられないことなのです。こうして観劇体験は
その人の人生のなかに徐々に浸みこんで行くのです。そもそも伝統芸能とは
過去に発し過去から高められる芸能なのですから、歌舞伎が過去形になる感
覚が伝統芸能である歌舞伎を考える上でとても大事なことになります。しか
も、この感覚は決して自ら望んで得られるものではありません。ですから歌
舞伎を研究する身にとってみれば、自分のなかに「歌右衛門以前と以後」と
云う感覚が出来たことはまことに有難いことだと思っています。そこから
「歌舞伎素人講釈」が始まったのです。


2)平成歌舞伎前期~忘れられぬ役者たち

昭和から平成へ年号が変われば、それで昭和歌舞伎が終わって平成歌舞伎が
いきなり始まるわけではありません。平成となった時点で舞台に立っている
のは当然みんな昭和生まれの役者なのですから、歌舞伎は新しい時代にふさ
わしい感触に少しづつ変わって行くのです。変化の種はすべて昭和のなかに
あります。思い出す舞台も役者もいろいろありますが、そのなかで平成にな
ってついに見事な芸の実りを見せた二人の役者のことをまず思い出します。
ひとりは十三代目仁左衛門(平成6年、90歳で没)、もうひとりは平成中
期まで健在だったわけですが、四代目雀右衛門(平成24年、91歳で没)
です。 いわば昭和歌舞伎の最後の輝きを体現した御二人でした。

吉之助が歌舞伎を熱心に見始めた昭和50年代の初め頃の仁左衛門は、失礼
ながら芸の手堅いところは評価できるものの、地味であまり 印象に残らな
かったかも知れません。しかし、昭和56年(1981)国立劇場での「道
明寺」の菅丞相は、これは当時「神品」とまで評されたほど見事なものでし
た。この舞台以降、歌舞伎での存在感を一気に増しました。晩年の仁左衛門
は目が不自由でしたが、義太夫狂言での安定感は抜群でしたねえ。平成6年
没ですから平成の時代での活躍はそう多かったわけではないけれど、吉之助
のなかでは 晩年の仁左衛門は平成前期に芸の花が開いた役者と云うことで、
忘れ難いものがあります。

四代目雀右衛門も、昭和の時代は六代目歌右衛門の影に隠れて、芸は優れて
いたけれどどことなく暗い感じがして、どうしても二番手という印象がぬぐ
えませんでした。雀右衛門が名実共に平成の立女形として重い存在になって
いくのは、歌右衛門が舞台に立たなくなって以降(平成5年頃)からのこと
だと思います。やはり自信と云うか、歌舞伎を背負って立つ責任感が、芸を
グッと大きくするのですねえ。それからの雀右衛門の活躍は、ここで述べる
までもないことです。時代物の役どころをしっかり守ってくれたことは、感
謝してもし切れません。(壮年期は地味だったけど晩年に芸の深みをグッと
増したという点では、この二人はどこか同じ時期の指揮者のオイゲン・ヨッ
フムとかギュンター・ヴァントを思い出します。やはり役者は60歳を過ぎ
てからが勝負ですねえ。まことに芸の精進は終わりがありません。)

ああもうひとり重要な役者を挙げておかねばなりません。それは三代目猿之
助のことです。二代目猿翁と云うよりも、吉之助としてはここはやはり猿之
助と呼びたいところです。猿之助は平成15年(2003)11月に病に倒
れて、その後はほとんど舞台に立っていません。しかし、昭和50年代から
平成前期においての活躍は、歌舞伎史のなかでも相応の頁を割かねばならぬ
ほど華々しいものでした。猿之助歌舞伎という現象も、昭和からの流れから
読み解く必要があります。昭和50年代の猿之助については、吉之助は「猿
之助は次は何をやってくれるか」という感じで毎月の舞台を楽しみにしたも
のでした。(ただし吉之助は「ヤマトタケル」(昭和61年・1986・2
月新橋演舞場初演)以降は、猿之助歌舞伎から距離を置くようになって行き
ました。その背景については別稿「いわゆる歌舞伎らしさについて」でちょ
っと触れたことがあります。)猿之助歌舞伎はいわゆる保守本流の歌舞伎と
は一線を画すものですが、猿之助は平成に入って一段と活動をヒートアップ
していきます。次々と制作されるスーパー歌舞伎は興行的に成功を収めまし
たし、現在の三代目右団次や新派で活躍する喜多村緑郎・河井雪之丞らを育
てた二十一世紀歌舞伎組など、猿之助の活動が平成初期の歌舞伎の重要な一
角を占めたことは疑いのないことです。現在の猿之助一座の面々が各方面に
散ってしまったことに一抹の寂しさを感じないではないですが、その彼らも
それぞれの場面で重宝されているわけですから、猿之助が残したものはとて
も大きかったのです。この猿之助の新しい歌舞伎に向けての試みが、平成中
期に十八代目勘三郎の、平成中村座や野田歌舞伎に受け継がれて行くことに
なるわけです。(この稿つづく)


3)平成歌舞伎前期~昭和歌舞伎の精算

昭和50年代初め頃、吉之助は、21世紀に成る頃(つまり20年後の未来
ということですが)には多分歌舞伎は興行的に成り立たなくなっているだろ
うと、かなり悲観的に考えてました。具体的には、松竹だけでは歌舞伎を支
え切れなくなって国が文化事業として支援せざるを得ないような状況、現在
の文楽のような状況を思い浮かべていました。

なにしろ昭和53年(1978)の歌舞伎座の興行を見ると、歌舞伎ではな
い月が4ヶ月もあったのです。3月(八代目幸四郎・山本富士子公演)、6
月(萬屋錦之助公演)、8月(三波春夫公演)、12月(大川橋蔵公演)で
した。歌舞伎を上演したのは、残りの8ヶ月でした。恐らく興行的にはこの
時期の歌舞伎がどん底期であったかも知れません。歌舞伎は、映画やテレビ
にお客をどんどん奪われていました。歌舞伎が掛かっていた月も、夜の部の
最後の幕などは、(建て替え前の)あの歌舞伎座の広い三階席に客がパラパ
ラで実に悲惨な光景でした。当時の昭和の大幹部の舞台で質的にはなかなか
良かったのですがねえ。だから吉之助にはあのどん底期の歌舞伎座を支えた
観客の一人だという自負が密かにあるのだが、まあ自分で思っているだけで
すがね。あの頃の歌舞伎座の客席を思えば、とても20年後に歌舞伎が続い
ているとは思えませんでした。恐らく当時の歌舞伎役者なら程度の差こそあ
れ誰もが危機感を持っていたと思います。

興行的な問題を別にしても、芸の伝承や後継者の問題や脇役・竹本など裏方
の不足など歌舞伎は恒常的な問題を抱えています。( これは現在でも解消さ
れているわけではありません。)吉之助は歌舞伎はいずれジリ貧に陥るだろ
うと半ば諦めていました。だから今のうちに歌舞伎を眼に焼き付けておこう
ということで、六代目歌右衛門や十七代目勘三郎その他の昭和の大幹部の舞
台を必死に見たのです。十年くらいは東京で掛かっている歌舞伎は、時間
が許せば片っ端から見ました。その頃の記憶が、現在の吉之助の貴重な財産
になっているわけです。

もっとも松竹や歌舞伎がこの危機的状況に手をこまねいていたわけではあり
ません。人気回復のためにいろんな努力がされたと思います。平成元年(昭
和64年・1989)の歌舞伎座の興行を見ると、歌舞伎でないのは、8月
(SKD公演)のみですね。橋蔵(昭和59年没)・錦之助(平成9年没)の
ような歌舞伎座をいっぱいに出来る時代劇の大スターが衰えたということが
大きいかなと思います。この時期の吉之助には歌舞伎が盛り返したという印
象はあまりないのですが、ただ昭和55年から浅草公会堂で若手花形による
初春公演が行われるようになったり、猿之助の昭和61年からスーパー歌舞
伎(前述の「ヤマトタケル」)が始まったり状況改善努力があって、それが
平成になって結果となって表れて来たということだと思います。この頃から
世間に和テイストへの関心が高まって来たということも大きかったでしょう。
(逆を云えば、普段の生活からそれだけ旧来の和の要素が消えてしまったと
いうことなのです。) まあ興行史的な分析はこのくらいにしておきます。

そういうわけで平成歌舞伎前期は、いろんな意味で昭和歌舞伎の正の遺産・
負の遺産の精算の時期であったと云えます。ちなみに平成歌舞伎の前期は、
日本経済のバブル崩壊、いわゆる「失われた10年」とほぼそのまま重なる
ことも戦後歌舞伎興行史を考えるうえで大事なことになるでしょう。(失わ
れた10年の時期は、人によって見方が異なるでしょうが、吉之助は日経平
均株価が最高値38,957円を付けた平成元年(1989年)12月29
日からと規定します。)歌舞伎のことだけで考えていると分からない複合的
な要素がいろいろと絡んでいます。

しかし、思い返してみれば昭和50年代から平成の初め頃にかけての、昭和
の大幹部から次の若手花形への世代交代は、比較的順調に行った方ではない
かと思いますねえ。現在の平成の幹部役者(つまり昭和戦後生まれの若手花
形)は数々の大役の初役を比較的早い時期に経験しています。そのような座
組み・配役を意識的に心掛けて来たことが、平成5年過ぎたあたりから実を
見せ始めたと思います。(現在の世代交代が順調に進んでいるかという問題
は至急検証せねばならない事項だと思います。吉之助の感じでは、現状の世
代交代は親世代よりも5年ほど遅れているように思われますが。)

昭和50年代の頃の状況を思い出すと、現在(2019年)の歌舞伎の隆盛
はまったく夢みたいだなあと思いますが、しかし、それにしても、あの時吉
之助が抱いた危機感は何でも悲観的に考え勝ちな吉之助の単なる思い込みで
あったのか?確かに歌舞伎の客足(興行成績)は回復したけれども、それで
歌舞伎は危機を脱したと安心して良いのか?と思うことは時々あります。実
は大切な問題がなおざりにされていないかと感じているところに、先日、玉
三郎の「最近の歌舞伎は層が薄くなった、そういう意味では危機的状況かも
知れない」という発言が飛び出したわけです。(これについては別稿「歌舞
伎は危機的状況なのか?」をご参照ください。(この稿つづく)


4)平成歌舞伎中期~十八代目勘三郎の時代

平成歌舞伎中期(ここではほぼ平成13年から平成24年とします)につい
ては、まず世界史レベルの事件を二つ挙げておかねばなりません。ひとつは
911(アメリカ同時多発テロ事件(平成13年年9月11日)、もうひと
つは311(東日本大震災平成23年3月11日)です。この二つの事件に
よって世界の既存の構造・価値観がガラガラ崩れ落ちてしまいました。この
時代に生きる人は、世界の何かが変わったことの意味を自分に向けて常に問
いかけなければなりません。そんなことを考えるなかで現代人にとって何
故古典が必要か、その意味が研ぎ澄まされてくると思います。吉之助にとっ
て日常生活で歪みがちな感性を正しい状態に整えてくれるものこそ古典です。
歌舞伎もこのことから無縁ではいられません。

平成歌舞伎中期は吉之助にとって「歌右衛門以後」ということになりますが、
別の視点からこの時代を眺めたいのですが、いろいろな事象が挙げられるけ
れども、中期はやはり十八代目勘三郎の時代であったと断言して良いと思い
ます。二十一世紀の歌舞伎は、九十九里の浜辺で新春の初日の出を背景に中
村屋親子が連獅子の毛振りを披露するテレビ中継で幕を明けました。この時
期の歌舞伎は確かに勘三郎を中心に回っていたし、天下を狙う勢いがあった
と思います。しかし、勘三郎は最後の約10年でパアッと輝いて、突然フッ
と消えてどこかへ行ってしまいました。

吉之助の勘三郎の思いについては別稿「勘三郎・一周忌に寄せて」で書き尽
くせていると思いますが、七回忌になる現時点(平成31年)において付け
加えるとすれば、勘三郎の実験歌舞伎(平成中村座・コクーン歌舞伎・野田
歌舞伎)は、これは変革の気分としては現在も何となく受け継がれていると
思いますが、演劇運動としては結局実を結ばなかったと云うことが、次第に
明らかになってきました。ここで「現代人にとって古典とは?」ということ
が再び問題になるわけですが。

恐らく勘三郎は自分のやってきたことを歌舞伎の定型にまでしたかったと思
います。つまり「自分が型を作る」ということです。もし勘三郎が現在も元
気でいたならば、「夏祭」も「法界坊」も串田演出で続けて従来型をやらず、
串田演出を歌舞伎の型にしようとしたと思います。しかし、これも勘三郎の
死によって頓挫しました。「野田版・研ぎ辰の討たれ」など新作物の試みも、
あまりに勘三郎のキャラクターに依存し過ぎた題材のため再演が難しい。結
局、勘三郎は記録と云うよりも、記憶のなかに強烈に残る役者ということに
なってしまいました。

別稿「歌舞伎は危機的状況なのか?」のなかで触れましたが、歌舞伎の型と
いうものは最初から「型」として生まれて、「俺は後世の規範となる型を残
す、これ以後この役をやるならばこの型でやるべし」として次代に受け渡す
ものではないのです。受け継ぐ者たち(後輩)が、これを守るべき大切なも
のだと認めて、同じように自分も演じてみたいと努めるから、これが次第に
「型」になるのです。残念ながら、勘三郎は自分で型を創造しようとしまし
たねえ。勘三郎はちょっと先を焦り過ぎたのではないでしょうかね。これを
型にしようと云うことは、後世の判断に任せるべきことでした。吉之助は勘
三郎に「祭祀としての演劇にの理性(アポロン)と熱狂(ディオニッソス)
は同じ肉体に宿るか」という問いに対する答えを期待したのだけれど、答え
は勘三郎の死によって保留にされてしまいました。(この稿つづく)


*本号の記事でのサイトの関連記事
いわゆる「歌舞伎らしさ」を考える
http://kabukisk.com/butai80.htm
歌舞伎は危機的状況なのか
http://kabukisk.com/dentoh102.htm
十八代目中村勘三郎・一周忌に寄せて
http://kabukisk.com/geitohito56.htm


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発行周期:  不定期 最新号:  2019/03/22 部数:  612部

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