古代史探求レポート

天智天皇が拉致された理由


カテゴリー: 2017年05月30日
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古代史探求レポート 2017年5月31日号
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事務次官という職は、公務員になって座れる最高の地位です。役所が普通の会社であるとすれば、社長職こそが事務次官です。文部科学省には、現在、2115人の公務員が働いています。その2115人のトップが、文部科学事務次官です。文部科学省の年間予算は5兆4000億円。省庁の中では、大きい方ではないですが、教育行政、スポーツ振興、科学技術、文化を管理する省庁です。
私には、安倍首相を擁護しようとするつもりもありませんし、職権を利用して私的に友人を応援したとするなら、それは問題であると思います。公平性という視線を逸脱しているのであれば、非難されても仕方がないのかもしれません。
しかし、一方で、教育、学術、文化を管理するトップの人間が、突然メディアの前に文書を持って登場し、総理の意向で行政が歪められましたと話す姿は非常に奇異に映りますし、不快感を感じます。組織を構成してきた重鎮が、その職を離れた後に組織を裏切るというのは、事実であったとしても見ていて感じの良いものではありません。
内閣からの指示で、行政が歪められるという表現自体もおかしいように思いますが、本当に自身がおかしいと思い憤慨したのであれば、なぜ、その時に声をあげ戦わなかったのかと思ってしまいます。
文部科学省の事務次官にまでなった人間が取るべき手段ではなかったのではないでしょうか。第一、そんなことをしたとしても、文部科学省内の現役官僚がそれを認める発言をするなど、ありえないことはわかっていたと思います。何が、彼をそういう行動に突き動かしたのかわかりませんが、野党の迷言に乗せられて、取引として出してきたのであれば、残念でなりません。
自分の仕事に誇りを持てない人間が、他人を説得するのは難しいと思います。
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■  第一章 天智天皇 「天智」という名には「悪」が込められている!

実は「日本書紀」には、天智天皇の御陵、つまり、お墓の場所が明記されていないのです。これもわからなかったはずはないので、わざと隠されたと考えるべきでしょう。
実際の天智陵「御廟野古墳」は、現在の京都市山科にあります。でも、そのことは「日本書紀」にも、その次の時代の正史「続日本紀」にも何も書かれていないのです。
この事実とともに見過ごすことができないのが、「扶桑略記」の天智天皇に関する記述です。「扶桑略記」は、平安時代の末期に比叡山功徳院の皇円という高僧が書いた歴史書が、実はここに、「日本書紀」とは全く異なる天智天皇の最後が記されているのです。
「日本書紀」では天智天皇は病が原因で亡くなったと書かれているのですが、「扶桑略記」には、天智天皇は山階の里に遠乗りに出かけたまま帰ってこなかった。探したが道に天皇の沓が片方、落ちていたのを発見できただけで、天皇の姿を見つけることはついにできなかった。仕方がないので、その沓の落ちていた場所を陵とした、と記されているのです。
これこそが天智陵に比定されている御廟野古墳なのですが、「扶桑略記」の記述を裏付けるように、地元の人はこの古墳を古くから「沓塚」と呼んでいるのです。
(中略)
でも、私はこの「扶桑略記」の記述こそ真実を伝えたものなのではないか、と考えます。もしこれが真実だとすれば、天智天皇は病死ではなく、遠乗りに出かけた際に殺されて遺体は隠されてしまったということになります。
(学校では教えてくれない日本史の授業 悪人英雄論 井沢元彦  PHP文庫)
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今回は、井沢元彦さんの書を紹介させていただきました。私が、井沢さんの本を最初に手にしたのは「言霊」について書かれたものでした。その時は、なるほどと思ったのですが、それを機に何冊かを読むと、残念ながら新しい分析や見方はされていませんでした。少し、がっかりしてしまい、それ以降はあまり良い印象を持たなくなりました。
前回は梅原猛さんを紹介させていただきましたが、梅原さんの書は、一冊一冊が全く異なったテーマを丁寧に資料にあたりながら、熟考を重ねて書いておられます。個人的な趣味の問題として、私は、梅原さん的な取り組み方が好きなのであって、正しいか正しくないかではありません。もしかすると、ビジネスと学問の違いなのかもしれません。
今回は井沢さんの本から引用させていただきました。井沢さんのバイアスが大いに入っていますが、歴史が残す不可思議さを、うまく整理をされているためなのです。井沢さんは、この結論として天智天皇を殺害したのは天武天皇だということを言われています。大胆な解釈ですが、私は賛同できません。今回は、その辺りのことをお話しさせていただきたいと思います。
この天智天皇の最後というのも非常に面白い歴史の謎の一つなのです。まずは、正史である日本書紀に記された流れを少しだけおさらいしたいと思います。
白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗した中大兄皇子は、次は唐・新羅軍が日本にも攻め込んでくると恐れて水城を築き、防人を置き、都は近江の大津宮に引っ越します。そして、唐や新羅が攻めてこないことを確認した後、天皇の地位に登ります。このため、日本書紀の記述は多いのですが、在位はたったの4年間でした。
しかも、4年目には病に倒れます。そして、弟の大海人皇子を枕元に呼び、勅命して「皇位を授ける」と言い渡すのですが、事前に気をつけるようにと忠告を受けていた大海人皇子は、僧になって天皇を助けたいと申し出て、皇后に皇位をつがせて、天智天皇の息子の大友皇子を立太子させてくださいとお願いするのです。そして、天皇はこれを許可します。
大海人皇子は、直ぐさま吉野に向かいます。そして、時が来るのをじっと待つのです。数ヶ月後、天智天皇は亡くなります。大海人皇子は、大友皇子の母の地盤である伊賀を抜け、美濃に入り兵をあげます。そして大友皇子を破り天武天皇となるのです。
数週間前の古代史探求レポートでは、この壬申の乱を取り上げさせていただきました。その戦いを検証することで、大海人皇子が、この壬申の乱を勝ち残れるという自信があったわけではないということを報告させていただきました。
周到な準備がされていたとは、とても言い難い状況であったのが事実であると思います。ただ、彼を支援する東の豪族達は、天智天皇の政権に対して決して喜んではいなかったことも確かだと思います。白村江の戦いにしろ、防人にしろ犠牲を強いられたのは、東の豪族達であったからです。
一方、ここで紹介されている扶桑略記についても少し、説明を加えさせていただきたいと思います。扶桑略記を書いた皇円(こうえん)は、11世紀の僧であって、政権とのしがらみはありません。
扶桑略記は、彼が内容を吟味して書いているというより、これまでの書籍を引用して一冊にまとめている書であるのです。あくまで、又聞きの情報になっているのですが、重要なのは引用した書籍が現存しないものも多く歴史資料としては非常に貴重なものなのだということです。
では、扶桑略記の中で、実際どのように記載されていたのでしょうか。
十月、大海人皇子が病臥の天智天皇に呼ばれ、皇位を辞退する日本書紀の記述が記載されます。そのあと、同月、大友皇子が太政大臣となり、皇太子となると記載されています。そして、十二月三日 天皇崩御、同五日大友皇太子が、帝位につきます。
その後、「一云」として、「天皇は馬に乗り、山階(山科)郷に行ったが、その後帰って来なかった。山林に混じってしまい、亡くなられた場所もわからない。ただ、履いていた沓が落ちていたところである、その山を陵となした。その後諸皇(皇室の人々)は、その因果関係がわからなかったが、(多分)殺害されたのだろうと考えていた。山陵は、山城国の宇治郡の山科鄉北山にある。」と記載されます。
確かに日本書紀の天智天皇の最後の記述はとても不自然です。死亡した場所も書かれていなければ、死者を弔う殯(もがり)についても全く記述がありません。陵もどこに置かれたかも書かれていないのです。
このことからなのでしょうか。扶桑略記には行方不明説が記載されているのです。皇円は、なぜ行方不明にあったのかはわからないが、殺害されたのだろうという文書を書き写しています。確かに、最後の様子が示されていなければ、何があったのだろう、何かあったに違いないと考えるのは明らかです。
もう一点、扶桑略記と日本書紀には大きな違いがあります。扶桑略記では、十二月三日に天皇崩御されると、翌々日には大友皇子が天皇になったと書かれていますが、日本書紀では大友皇子は天皇になっていません。これは当然と言えば当然で、もし、大友皇子が皇位についていたとするなら、天武天皇は天皇を殺害して皇位を簒奪した大悪党に成り下がってしまいます。日本書紀が天武天皇の歴史書であるとするなら、そんな記述を載せるわけはないのです。
そもそも、何を持って皇位継承を行なったとするかですが、新嘗祭を終えて初めて天皇となるのであれば、大友皇子は翌年の7月には亡くなっているわけですから、一度も新嘗祭を行っていないことになります。従って、皇位を継承としたとして良いものなのかどうなのか本当は非常に怪しいのです。しかし、明治になってから、日本の歴史としては、大友皇子を正式に弘文天皇として認めています。
天智天皇行方不明説は、大友皇子の皇位継承をはっきりさせないためにも有益であったとも言えます。死亡が確認されていないのであれば、継承の儀を執り行うことはできないためです。
こうやって見てみると、扶桑略記の「一云」は、天武天皇側から出てきた説であるのかもしれないとさへ思えるのです。
現実に記載されたようなことが起こり得るのかを少し考えて見たいと思います。
天智天皇は、626年生まれですから、死亡した672年には46歳です。「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」の舞台となったのは、「蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)したまひし時」であったわけですから、もちろん、一人で馬には乗れたのだと思います。
しかし、20代、30代ならともかく、46歳の天皇がたった一人で馬で遠出をするなどは、ちょっと考えられないことではないでしょうか。外出するのであれば、必ず御付きがついたでしょうし、何の用事があったのかわかりませんが、天皇自らが出向くということがあったのでしょうか。前提となっているシチュエーション自体が存在し得ない出来事なのです。
片方の沓が落ちていたというのも、考え難いシチュエーションです。木靴で蹴鞠をしていたわけではありません。現代のように、履くだけの靴であるなら、そういうこともあるでしょうが、馬に乗って遠乗りをしているのです。沓は皮を足に縛りつけていたはずです。
事実、現在の京都市山科区には、御廟野古墳が存在します。八角墳であり、天智天皇の陵に間違いないとされている古墳です。大津の宮から、5km程離れた場所にあり、非常に立派な築造された墳丘です。沓しかなかった場所、すなわち、仮の埋葬地として作られたものではありません。
扶桑略記では、十二月三日に崩御し、翌々日に大友皇子が天皇になったと書かれていましたが、「水鏡」には、十二月三日に失踪し、五日に帝位についたと書かれています。
亡くなったのも、失踪したのも、同じカレンダーを使っているのですが、失踪した二日後に帝位につくなどということは、現実には考えられないと思います。噂の出所は同じであると思いますが、扶桑略記の百年後に書かれた水鏡は、扶桑略記を見て物語を作ったのかもしれません。
では、なぜに、彼は行方不明になり、かつ何者かに拉致されたように思わせるような記述がなされ、残されたのでしょうか。朝廷側から流した説のようだと言いましたが、やはり、根底には大友皇子が天皇であったことを隠す理由があったからなのでしょうか。
行方不明説が出るのは、やはり、それだけ長い間人々の前に姿を表さない時間があったからであろうと思います。すなわち、病に臥せってからは、とても人前に出られるようなものではなかったということではないかと思います。だからこそ、行方不明になったのではないかという説が、まことしやかに囁かれたのではないかと思うのです。
井沢氏は、天智天皇は百済派であり、大海人皇子は新羅派であったことから、大海人皇子が新羅と結んで拉致し殺害したのではないかと言われています。しかし、そうであれば、その時に大友皇子も殺害し政権を奪取したはずです。そうすれば、壬申の乱のような大きな戦に発展することもなかったはずです。第一、すでにこの時点では百済は滅亡しているのですから、百済派である意味はまったく存在しないのです。
天智天皇は天皇であるのですから、大海人皇子が戦う必要があるのは、天智天皇個人ではなく、天智天皇の作り上げた体制です。そこには、乙巳の変以降の信頼の置ける重臣達と彼らが組織する兵力が存在していたわけですから、単純に個人を拉致暗殺したとしても、状況は全く変わらないのです。
そして、そのような行為を実施したなら、真っ先に疑われるのは天武天皇です「虎に翼をつけたようなものだ」と言われている中で、そのような大きなリスクのある暗殺を実行するとは思えないのです。
神さらいにあったとしたなら、沓を残して置く必要はないわけです。あくまでも沓を残したのは、拉致されどこかに連れて行かれたと言いたかったわけです。生きてどこかに存在していたと思わせるのは、死が確定されるまでの時間を空白にしたいためです。だとすれば、皇位継承がなかったことを補足し、正当化するために、後の天武天皇側が作った偽情報であったのではないかと思います。
日本書紀の中では、大海人皇子が天智天皇に申し上げたのは、皇位は皇后の倭姫王に継承してもらい、大友皇子を立太子にという提案でした。これに対し、天智天皇は認めたとしていますので、その時点では可能性として倭姫王が皇位に付いていたという可能性ならあると思います。
しかし、この形は後の持統天皇への皇位継承を正当化するために記載された内容ではないかと考えられます。大友皇子は648年生まれですから、天智天皇がなくなった時は既に24歳で、成人しているわけですから、立太子でなく、帝位を継ぐことは十分できたように思います。
歴史は勝者が作るものです。従って、天武天皇並びに天武天皇の側近が、自分達が理想とする歴史の流れを書いているのは間違いありません。そこには、天武天皇自信を美化するために真実とは離れて書き直されている部分が存在することは確かであると思います。
しかし、大きな流れとして天智天皇の後、天智天皇が子供の大友皇子を後継者にしようとしたというのは真実でしょうし、天武天皇がそれに反して皇位を手に入れたというのも真実であると思います。壬申の乱により、正々堂々と戦って手に入れた皇位であると歴史書は述べているわけですから、そこに嘘は存在しないと思います。簒奪したのは確かですし、また、それは天皇を殺害して簒奪したのではなく天智天皇の死を待って壬申の乱を起こしたというのも真実なのではないかと思います。
大海人皇子が皇位を辞退した翌月、大友皇子は蘇我赤兄・中臣金連・蘇我果安・巨勢人・紀大人の五人の高官と「天皇の詔」を守る固い誓いを交わしています。日本書紀は「泣血誓盟」と書いているのです。血の涙を流しながら盟約を誓ったのです。「臣ら五人、殿下に従って天皇の詔を奉じる。もし違反することあれば(他の)四天王が打つ。天神地祇もまた罰する。三十三天、このことを証し知れ。子孫が絶え、家門必ず滅びること」と言う硬い誓いでした。
病臥の天皇が馬に乗って、山科まで遠出することもなければ、天皇を殺害したとしても血の結束を誓った重臣達と戦わなければなりません。吉野の山の中に籠ってしまった大海人皇子には、とても対戦するだけの力は存在していなかったのです。このため、拉致暗殺説は全くの嘘であると結論づけて良いのではないでしょうか。
それを流布したのは、壬申の乱を勝ち抜けた後、日本書紀の編纂にあたり大友皇子が皇位に着く前であったと言いたいがために、そのような諫言を故意に流布したというのが現実ではないかと思います。双方3万、合計6万人が戦った壬申の乱は無かったことにはできなかったでしょうが、天智天皇の生前に大友皇子に皇位が渡ったことは無かったことに「できかけた」というのが真実ではないでしょうか。
1200年の後、弘文天皇なる名前が大友皇子に贈られるとは、流石の天武天皇も予想することはできなかったのではないでしょうか。私には、持統天皇あたりが悩み、藤原不比等の悪知恵が作り出したストーリーのような気がするのです。
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<<編集後記>>
北朝鮮は、ポンポンポンポンとよくミサイルを撃ち上げますね。やっぱり、怖いのでしょうかね。ひどく怯えているように見えるのは、私だけではないと思います。もう、放って置いても、自滅するのは時間の問題なのかもしれません。

<発行者> 株式会社歴史探求社
<公式サイト> www.rekitan.co.jp
<問い合わせ> web@rekitan.co.jp
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