古代史探求レポート

隋書倭国伝には聖徳太子が大王だったと書かれている


カテゴリー: 2017年05月09日
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古代史探求レポート 2017年5月10日号
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ゴールデンウィークは、前半は三重で、後半は東北に足を伸ばしました。
東北に行ったのは、数週間前に探求レポートでも「不来方にいた鬼の正体」で報告させていただいた場所を、再度ひとつづつ回ってみようと思ったからです。
鬼首温泉(鳴子温泉)は、今でも存在しますが、一関市の「鬼死骸」は非常に辿り着くのに苦労しました。
そこに住む人にとってみれば、「鬼死骸」などという地名が良い土地の名前でないことは明白です。実際「鬼死骸」の名はほとんどの場所から消されていました。宮城交通のバスの「鬼死骸」のバス停も、バス路線の廃止とともに無くなっていました。
行かれる方は岩手交通の真柴バス停の先になります。的場の踏切の近くです。鬼石や、坂上田村麻呂が建てたという鹿島神社もすぐ近くにあります。今唯一名前の表記が残っているのは、電柱に貼られた電柱名称に鬼死骸の名が残されています。
一関市の皆様には、千数百年に渡り伝えられ続けている貴重な伝承を残すことに力を入れていただけないかとお願いしたいと思います。全てを平泉に注ぎすぎではないでしょうか。
奥州市の江刺区米里人首町にある人首丸の墓も苦労しました。コトコト水車という建物がある場所の先をずっと行った山の中にありますが、登山の格好をして行かないとひどい目に会います。ここは本当の人首丸を埋めた場所です。ですから、里でないのは仕方ないのですが。
人首の地名や町名は存在し大切にされています。人首小学校もあります。ここは、大和朝廷軍との戦いで倒した相手の首を並べたのでしょうか。人首丸という少年が美少年であって、顔だけ人だったという伝説も残ります。坂上田村麻呂が、観音堂を建てたというのも意味深です。ほとんどの場所には毘沙門天を祀るのに、ここでは供養のためのお堂を建てているのです。
北上市の「鬼の館」には、岩手の鬼の伝承マップに人首丸も鬼死骸も記載されて残されていました。伝統芸能の鬼剣舞から鬼の特集をした博物館としているのですが、面白いと思いました。なぜ、東北には鬼が多いのかを、もう少し掘り下げてもらえればもっと良いと思いました。
岩手の地名ともなっている盛岡三ツ石神社の不思議な大岩は、でんとその地に存在しています。しかし残念なのは、どこに鬼の手形が見えるのかさっぱりわかりませんでした。せめて、これが鬼の手形なのですよという手形跡の説明があっても良いのではないでしょうか。見える人には見えるでは、詐欺商法になってしまいます。
一関市真柴の皆さん、奥州市江刺米里人首町の皆さん、突然の呼び止めにも快く教えていただき、本当にありがとうございました。胆沢城の学芸員さん、志波城の学芸員さん、お世話になりました。ありがとうございました。
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■  隋書倭国伝
(前略)
開皇二十年、倭王の姓をアマ、字をタリシホ(ヒ)コ、アハケミ(オオキミ)と号す。遣使して闕(けつ)に至る。上(文帝)は所司に命じその風俗を訪ねさせた。使者言う。「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天まだ明けぬ時に出て政務を聴き、跏趺して坐る。日が出ると理務を停(や)め、我が弟に委ねる。」高祖(文帝)曰く。「それは大いに義理なし(筋が通らない)」これにおいて、訓してこれを改める。
王の妻はケミと号す。後宮に女が六、七百人有り。太子を名づけリカミタフリと為す。城郭は無い。内官には十二等級有り。一に曰く大徳。次に小徳、次に大仁、次に小仁、次に大義、次に小義、次に大礼、次に小礼、次に大智、次に小智、次に大信、次に小信。員の定数は無い。軍尼(クニ)有り、百二十人。中国の牧宰のごとし。八十戸に一人の伊尼翼(イニキ?稲置か)を置く。今の(中国の)里長なり。十の伊尼翼が一つの軍尼に属す。(クニは、国司もしくは国造か)
(中略)
仏法を敬い、百済に求め仏経を得る。始めて文字を知る。卜筮を知り、巫覡を信じる。
(中略)
新羅と百済は皆、倭は大国をなし珍しき物が多く、並びに敬い仰ぐ。常に使いを通わせ往来す。
(中略)
大業三年、その王のタリ(ラ)シホ(ヒ)コは使を遣し朝貢す。使者曰く「海の西の菩薩天子が仏法の興隆重んじるが故に、朝拝に遣し、兼ねて沙門(出家者)数十人は仏法を学ぶ」その国書に曰く「日出るところの天子書を日の沈むところの天子に届ける。つつが無しや。云々」 帝(煬帝)はこれを見て喜ばずに鴻臚卿に曰く「蛮夷の書で無礼のあるもの二度と聞かせるな」
明くる年(翌年)、上(煬帝)は文林郎の裴世清を遣し倭国へ行かす。百済へ渡り、竹島に至る。南に耽羅国を望み、大海の中にあるツシマ国を経て、また東、イキ国へ至る。またチクシ国へ至る。また東、秦王国に至る。その人は華夏(中国人)と同じ。夷洲と疑われるが明らかにすることはできず。また十余国を経て海岸に達す。チクシ国以東はみな倭に付属す。
倭王は小徳のアハタイを遣し、数百人を従え儀仗を設け、鼓や角笛を鳴らし迎え来た。十日後、また大礼のカタビを遣し、二百余騎を従え、郊外で労をねぎらう。既に彼の都に到達す。
その王は裴世清と相見し大いに悦びて曰く「我聞く、海の西に礼儀の国大隋有り。故に使者を遣し朝貢す。我、未開人で、海の片隅にありて、礼儀を知らず。このため境内に留まり、すぐに相見せず。今、道を清め、館を飾り、大使を待つ。願わくば大国維新の化(先進性)を聞くを欲す。」裴世清は答えて曰く「(隋の)皇帝の徳は二義(陰陽のことか)に並び、澤(恩恵)は四海に流れる。(倭)王が化(先進性)を慕うため、行人(使者の私)を遣わし、ここに来て説諭を宣べる。」既に引き、裴世清は館に就いた。
(以下略)
(書き下し文 歴史探求社 ( )内は補足)
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純粋な書き下し文で良いかと思いつつも、意味が取れないであろう箇所が多いと思われるため、一部口語訳のようになっています。是非とも、全文を口語訳で読んでいただければと思います。
私の、古代史探求レポートでは、日本書紀の記述を深読みしての解説が多いことにお気づきかと思います。これは、単に私が日本書紀が好きで、繰り返し繰り返し読んでいることにもよるのですが、そうすることで、編者が敢えて織り込もうとした意図を汲み取ることができるとも思うからなのです。
日本書紀は編成局のような部署が組織され、複数の人間が携わってまとめられたものと考えます。その時代、日本書紀の編者として、日本書紀作成業務に携わることができた人は、本当に名誉なことであったでしょうし、きっと、懸命に適切な言葉を選択したと思うのです。その言葉一言一言に、編者の気持ちが伝わるように思います。
ただ、残念なのは、日本書紀には大きな筋書きありきでまとめられています。多くの書で解説されているように、編纂の時代には、未だ帝紀と旧辞が存在しており、そこには比較的正確な史実が記述されていたのでしょうが、その内容を大幅に歪めて、日本書紀は万世一系の日本を作り出してしまいました。それにより、多くの真実が隠されてしまったのです。
日本書紀の編纂者は、中国の史書の存在を知っており、それに合うように補足し修正された箇所も多いことがわかります。日本書紀には、残念ながら、中国の史書との辻褄合わせによる虚構の世界も存在しています。その為、全てを史実としてとらえることはできません。
一方の、中国の史書は、そこに日本との利害関係がほとんど存在しません。もちろん、より遠い辺境の地から中国の皇帝の徳を慕って朝貢にきている、ということを示す若干の誇張表現はあるのかもしれませんが、あくまで、客観的な事実が積み重ねられているという安心感があります。逆にいうならば、そこには、真実の日本の状況が記載されていると考えることができると思います。
今回は、謎の多い7世紀最初の日本の真実がどうであったのかを、この隋書倭国伝を読み解きながら探求してみたいと思います。
中国の史書は、以前の史書の記述に書き足すようにして付加されていきますので、前半部分は魏志倭人伝の記述などを補足した形でまとめられています。邪馬台国は九州にあったと言われている方も未だに多いのが現実ですが、中国の史書の中においては、邪馬台国はヤマト(邪靡堆)なのです。
さて、読み解くに当たって、慎重に年代を検証したいと思います。
まずは「開皇二十年」は、西暦600年です。数週間前にこのレポートで、遣隋使・遣唐使についての探求レポートをお届けいたしました。私は、607年に遣隋使が始まったと学びましたが、実際は600年に国書を持参することもなく、礼儀を全く知らない状態で隋に訪問しているのです。これが最初の遣隋使です。日本は、中国と対等な国交を開こうとしたとも学びましたが、とてもとてもそのようなレベルではなかったのです。
600年にこの遣隋使を派遣したのは、アメのタリシヒコという大王(おおきみ)であったと中国の史書は書き留めます。これは事実なのでしょうが、実際に日本においては誰であったのでしょうか。
西暦600年は、日本書紀で言うなら、推古天皇8年と言うことになります。日本書紀によれば、この年、新羅が任那を攻めると言う事件があり、天皇は任那を救おうと派兵し、新羅を破り、新羅は日本に使いを送っています。しかし隋に朝貢したという記録はありません。
この時の会話が非常に面白いと私は感じています。隋の皇帝高祖文帝が、どのような政治を行なっているかと尋ねると「倭王は天を兄、日を弟とする」とまず答えます。天子であると言うことを言いたかったのでしょうが、天が父ではなく兄であると言うのが不思議な表現です。
その上で「天未だ明けざる時、出でて政務を聴く。」と言うのは、夜が開けないうちに報告を聞いていると言うふうに読めます。また「跏趺して坐る。」と答えています。これは、両足を組んで、腿の上に乗せる座り方をして座っていると言っています。この座り方は、仏教の座り方です。そして「日が出ると理務を停(や)め、我が弟に委ねる。」と言っています。弟は日ということなのでしょうか。
高祖でなくとも、なんと言う働き方かと不思議に感じます。しかし、よくよく考えてみると、これは「政」を問われ、それを「祀り事」と理解したのではないかと考えられるのです。当時の日本においての、政(まつりごと)とはまだ祭祀のことであったのかもしれません。
太陽が上る前に、神への供え物を用意し、神へ捧げるということを言っているのではないでしょうか。そして、その時、神の前に座って神の声を聞いているのです。そう考えると不思議ではありません。巫女のようではありますが、そのような儀礼を行なっていたのかもしれないと思うのです。
天が兄、弟が日だから、自分は天(アメ)から降りてきた男(タラシヒコ、垂し彦)だと答えているのも辻褄が合っていると思うのです。やはり、天孫族であると言う認識を持っていたのだろうと思います。
しかし、ここでの王はどうみても男です。女性であれば、必ず性別を記したはずです。中国の女性の皇帝は、後にも先にも則天武后ただ一人です。この時は未だ女性の皇帝は存在していません。日もこの時と同様に、詳細な報告がなされたはずです。それも無く、名に彦を持つ倭王は、間違いなく男性です。
では、誰だったのか。聖徳太子は、敏達天皇の3年に生まれています。574年生まれですから、この時26歳です。もう一人の候補は、蘇我馬子になりますが、馬子が生まれた年はよくわかりません。馬子の姉が堅塩媛であり、その子供が推古天皇ですから、太子よりは20歳程度年上であったのではないかと思います。
天孫族の血を引く大王として、神への祈りを欠かさなかったと言うのは、蘇我馬子には適さないように思います。蘇我氏自身は、百済王の系統ではないかと私は思っていますので、そうなると、ここで該当するのは聖徳太子しかいないことになります。つまり、聖徳太子が大王であったのだと私は考えるのです。
以前探求レポートで、法隆寺の秘仏についてお話をさせていただきました。その時も、聖徳太子が大王であった説をお話しさせていただいたのですが、隋書倭国伝からも太子大王説を説明することができるのです。
「王の妻はケミと号す。」王の妻を「雞彌(ケミ)」と言ったようですが、「號す」に対応するのは「大王(おおきみ)」だったのですから、ここは「君(きみ)」または「王(きみ)」なのかもしれません。
大王が聖徳太子であったとしたなら、菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)が正妻と言うことになります。他に、橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)、蘇我馬子の娘の刀自古郎女(とじこのいらつめ)、8人もの子供をなしたことになっている膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)と言うことになります。キミ、もしくは、ケミに近い名前とするなら、菩岐々美(ほききみ)ですが、ここはやはり「君」であろうと思います。
「後宮に女が六、七百人有り。」中国で言うところの「後宮」とは、徳川時代の大奥のような場所なのですが、日本では「采女」が集められ働いていましたから、宮で働く人が600人ぐらいいたと言うことかと思います。それにしても人数が多いように思いますので、誇張して表現したのかもしれません。
私は、この遣隋使による情報が聖徳太子の斑鳩宮に結実したのだと考えているのです。聖徳太子が斑鳩宮を造営したのが推古天皇9年のことですから、この翌年ということになります。移り住んだのが、推古天皇13年ですから4年後です。
この斑鳩宮も、多くの人々が謎の宮だとしているのですが、私はこれこそ聖徳太子が隋を真似て同じような制度を持つ大国なのだと示そうとした結果だと考えているのです。聖徳太子はこの斑鳩宮に移り住むときに、妻子や妃全てを斑鳩宮に連れて行ったのです。そして、一緒に生活をしたのです。これは当時としては実に画期的な生活様式の変更でした。
当時は結婚すると通い婚です。妻と同じに住むなどということはなく、また、子供は妻が育てていました。このため、多くの妃にその家や土地の名前が付いているのです。それを、中国の後宮を真似て、女性を一つの場所に集め住まわせた最初が、聖徳太子であり、この斑鳩宮であったのです。従って、この時のこの一言が斑鳩宮の建設に至ったのではないかと、私は強く感じているのです。
「太子を名づけリカミタフリ」「利歌彌多弗利」という字ですから、名前は別の音であるのかもしれません。聖徳太子が大王だと仮定するなら、太子は山背大兄王になるのですが、この頃生まれていたのどうかもわかりません。生まれていたとしても、まだ子供。とても太子としては難しかったのではないでしょうか。
推古天皇は、崇峻天皇が暗殺されて即位することになりました。崇峻天皇の前は、用明天皇で、その子供が聖徳太子です。その前が敏達天皇で推古天皇は敏達天皇の妃でした。だとすれば、一番可能性があるのは敏達天皇の子供の竹田皇子になります。しかし、竹田皇子は日本書紀によると推古天皇即位後間も無く亡くなってしまいます。推古天皇の即位でなく、聖徳太子の即位であったなら亡くなった意味合いも変わって来ます。
となると可能性のあるのは、推古天皇の後に即位した舒明天皇ということになります。彼の名は田村皇子です。「多弗利」を田村と読めるでしょうか。立太子が存在していたということに驚かされるとともに、それが田村皇子であったというのは多くの意味を含みます。なぜに、推古天皇という存在が必要であったかの謎も解けそうです。
私は、聖徳太子が亡くなったのち、皇位継承権の争いが起こり収拾がつかなくなったのではないかと思うのです。それは、立太子である田村皇子の存在と、その頃には成人していたであろう聖徳太子の子の山背大兄王との後継者争いであったと思います。そこで、仕方なく推古天皇が一時的に即位して継承争いにけりをつけたのではないでしょうか。そこには、もちろん馬子の進言があったものと思います。
そして「内官には十二等級有り。一に曰く大徳。次に小徳、次に大仁…」これは、紛れもなく冠位十二階です。日本書紀では604年に制定されたことになっていますが、600年に既に存在していたことがわかります。逆になぜに、年代を遅くしたのかという疑問が湧きますが、これは冠位十二階の制定の実績を聖徳太子に持って行きたかったためだと思われます。既に、蘇我馬子により制定されて、広く行き渡っていたということにはしたくなかったということでしょうか。
また戸籍が整えられていたであろうことも推測できますし、統治のための組織が出来上がっていたことがわかります。口分田は、7世紀の終わり頃に確立されたと学びましたが、7世紀の初めには出来上がっていたことがわかります。学校で学んだことに間違いが多過ぎます。これらの制度の構築も、やはり、屯倉を司っていたとされる蘇我氏の実績ではないかと推測します。
蘇我氏の治世とは、それほどまでに素晴らしかったということだと思います。百済の王族であればこそ、百済の制度をそのまま持ってくることもできたのだと思います。天皇である聖徳太子は祭祀を専門とし、政治は蘇我氏が行なっていたという完全な祭政分離の体制が出来上がっていたのだと考えます。だからこそ、太子の後は推古天皇で良かったのです。
「大業三年」は607年です。この時の内容は隋書倭国伝とも日本書紀とも一致します。ただし、隋書倭国伝側には、失礼な文書であると煬帝の怒りを買ったと記載されています。当然といえば当然です。全く遅れをとっている蛮国でありながら、対等のように天子から天子への書簡を送ったのです。
翌年、裴世清がやってきます。多分、斑鳩宮に出向いたということなのではないでしょうか。大王であった聖徳太子には、小野妹子が隋から帰国時に百済で紛失したとする煬帝の返書が渡されたのだと思います。そこには、非常に無礼で、かつ、礼儀を知らないと記載されていたのではないでしょうか。
だからこそ、裴世清を迎えた聖徳太子は、非常にへりくだった挨拶をしています。自分が野蛮な国の人間だから礼儀を知りませんとまで言っているのです。
もちろん、このような内容を日本の正史に記録として残すことが憚られることはよく理解できます。また、一方で、確実に煬帝の意図に沿うような外交をしてきたという報告でないと裴世清も生きてはいけなかったことでしょう。従って、ここには若干の誇張表現があるのかもしれません。しかし、記載された内容は会うまでに日数がかかった理由を含め、納得のいく内容になっています。
多分、「今後は、自分の立場をわきまえ、無礼な手紙をよこさず、また、定期的に使者を送り、中国の制度を学び冊封し続けよ」ぐらいなことを裴世清に言われたのだと思います。
聖徳太子が亡くなるのは、622年のことだと記されています。裴世清を迎えたのが608年。この後、14年間に非常に多くの制度が整えられ政治の基礎が作られました。これらは皆「大国維新の化」を学んだ結果であると思います。推進したのは、やはり、蘇我氏であったと思います。
こうなると、蘇我氏に国を乗っ取られると中臣鎌足が考えたことも、中大兄皇子が自分が天皇になる可能性が無いと考えるのも当然かと思います。乙巳の変は、飛び抜けた政治力のある蘇我氏を恐れた、皇室の一部とそこに仕える豪族達の悲しい抵抗であったようです。時代の流れであったということなのでしょうか。
隋書倭国伝により、かなり真実に近づいたと思うのですがいかがでしょうか。
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<<編集後記>>
長いゴールデンウィークも終わってしまえば、あっと言う間でした。やっぱり、長期での1週間以上の連続休暇というのは必要だと思いました。リフレッシュできました。ホームページに、岩手の旅を一部ですが紹介しています。興味のある方は、そちらも見ていただければと思います。

<発行者> 株式会社歴史探求社
<公式サイト> www.rekitan.co.jp
<問い合わせ> web@rekitan.co.jp
<登録・解除> http://www.mag2.com/m/0001587982.html

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