古代史探求レポート

日本書紀の脚色と遣唐使の密命


カテゴリー: 2017年04月18日
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古代史探求レポート 2017年4月19日号
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「弱い犬ほどよく吠える」と言いますが、北朝鮮によるミサイル発射もその一つだと思っていました。
残念ながら、彼らにはミサイルしかないのです。後は、とてもじゃないですが対等に世界と渡り合えるものが存在しないのです。そんな状況下で、国家として存続させようという指導者も大変だなと思っていました。
数年前「火遊びの度がすぎる」と中国からお小言を言われ、どうするのかを思っていたら、それでも辞めずにミサイル開発に金をつぎ込む姿を見せ続け、好んで破滅に向かっているのかと感じていました。
中国とのパイプを、どんどん切っていく姿にも、何がしたいのかと不思議に思います。孤立無援の中で、何かができると信じているところが、私には怖さに映ります。現代の社会の中にも、多くの指導者は存在しますが、彼らのほとんどがどこの支援を受けることで生き伸びていけるかを真剣に悩みます。より大きな力、絶対的な差を埋めるためには、そこから支援を得ることが先ずは必要になるからです。
例え、独裁者といえども絶対的な差は如何ともしがたいというのが現実でした。金正恩の祖父の金日成も、父の金正日もその力を借りて生き延びて来ました。しかし、金正恩はロシアにも中国にも頼らず、米国と向きあおうとしています。何が彼を駆り立てるのかはわかりませんが非常に不思議な気がします。
日本人も外交力は非常に弱く、外交交渉というものができない民族の一つだと思います。2つのうちに1つを犠牲にする代わりに、1つを確実に得るという判断ができないのです。マスコミは弱者の声を拾って声高に拡散させますから、余計に犠牲を強いることはできないのです。北方領土も、沖縄の基地問題も、諫早の干拓事業も全て根は同じだと思います。
しかし、北朝鮮と違うのは、とにかく話してその中から何か合意点を探ろうとする努力を惜しまない点だと思います。そして、弱さを見せることを恥じない精神が、それを支えているように思います。
弱さを見せることのできない指導者は、追い込まれると非常に脆い。もはや、彼を諭すことのできる人がいないのであれば、残念ですが滅んでもらうより仕方がないのかもしれません。ただ、ミサイルの試射を、計画的に失敗できる力は侮れません。
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■  中国文化は日本人に合わぬ。漢文の授業廃止を  百田尚樹

中国の尖閣諸島への“侵略”は日に日にエスカレートしています。ただし、意外かもしれませんが、尖閣周辺の東シナ海や南シナ海で暴れ回る中国に対峙しようという時に、もっとも弊害になっているのが日本人の「中国への漠然とした憧れ」です。
皆なんとなく『史記』が好きだし、時代作家は『三国志』を書きたがる。江戸時代の儒学者はとくにそうですが、長い間、日本人の間には中国は「歴史ある偉大な国」「文明的ないい国」だという誤解があった。
そもそも、なぜ学校で「漢文」の授業があるのか。英語と違って使う機会なんてないし、あれは趣味の世界だと思うんです。子供の頃から誰でも知っている「中国4000年」という言葉も、あの国への無意味な憧れを生んでいます。
それらが醸成する漠然とした「中国への憧れ」があるから、「なんだかんだ言っても、最後は仲良くできる」「全面戦争は仕掛けてこない」という幻想が生まれているのだと思います。
実際の中国は、異民族が次々に侵入してきては王朝を打ち立ててきた歴史です。易姓革命で王朝が変わるたびに民衆の大虐殺が行われてきた。そんな歴史のどこがいいというのでしょうか。今、中国が本気で日本を奪りに来ていることは誰の目にも明らかです。
そもそも中国文化は根本的に日本人には合いません。例えば故事にある「宋襄(そうじょう)の仁」は、紀元前の宋の国の襄公という人が、参謀から「敵が川を渡っている最中だから、今攻めれば勝てる」と進言されたのに、「そんな卑怯なことはできん」と相手が川を渡り終えてから正々堂々と戦って、負けたという話です。無用な情けということで、中国では「大バカ者」という意味です。
上杉謙信の美談となっている「敵に塩を送る」なんてメンタリティは中国人には通用しません。どんな手を使っても、とにかく勝ちさえすればいいというのが中国の文化なのです。
かつての日本は、今よりももっとうまく中国とつき合ってきました。中国の力が強大だった時は遣隋使や遣唐使を遣って制度や文化を取り入れましたが、それも平安時代になったら「もう中国の文化はいらん」とやめました。
中国の文化も、すべてを受け入れたわけではありませんでした。生身の人間の肉を少しずつ切り落としてじわじわ殺す凌遅刑は残酷だからとシャットアウトしたし、科挙も宦官も入れなかった。纏足の習慣も日本では根付きませんでした。朝鮮半島はそれらすべてを無条件に受け入れましたが、日本は取捨選択をキチッとして独自の文明を育んだのです。
それを考えれば、現在も中国に対する漠然とした憧れを持つことはやめるべきだし、そんな勘違いを育む漢文の授業も廃止したらいいのです。(SAPIO2017年5月号)
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永遠のゼロでデビューし、海賊とよばれた男で、本屋大賞を受賞された百田尚樹(ひゃくたなおき)さんの文章です。非常にサービス精神が旺盛の方ですから、反発を買うことを承知で極端な表現をされています。多分、SAPIOという雑誌の性格を考えた上でのものだと思われます。
最近の報道では、コピー商品問題、多くの食品偽装問題、そして、尖閣諸島の問題と、日本人にとっては絶対に受け入難いことを平気でやるのが中国人だと思われている方も多いのではないかとお思います。百田さんが言われるように、「宋襄(そうじょう)の仁」に代表されるように、中国文化は日本人に会わないのかもしれません。
しかし、冷静に考えてみると、現代に伝わるほとんどの中国の故事は、それを教訓として日本人も同様に受け入れていることも確かです。虎の威を借る狐、羊頭狗肉、塞翁が馬、漁夫の利、烏合の衆・・・・どれもこれも中国の故事です。やはり私達の文化の基本には、中国の伝承や教えが息づいているのです。
確かに、英語と違って漢文を使うことは、殆どないようにも思われるかもしれませんが、漢文が読めると、中国語の文章を理解することができます。今は、簡体字が主流になってしまっていますから、なかなか、私達の知っている漢字に読み替えることが難しくなりつつありますが、それであっても、多くの文章の内容は理解することができます。そもそも、日本書紀であっても漢文で書かれているのですから、読めなければ古代の文献を読めなくなってしまいます。
お隣の韓国は、一時期、漢字の使用を全く禁止していましたが、再び漢字を認めるようになりつつあります。そうしなければ、ハングルができる以前の古典は全て読めなくなってしまうことも大きな理由だと思われます。歴史を捨てた民族に将来はありません。私達日本人も日本人であるのですから、日本人が書いた古典を読む力をなくしてはいけないと思います。その意味では、古文も漢文も習得が必要であるのです。
さて、今回取り上げたかったのは、百田さんが書かれている「中国の力が強大だった時は遣隋使や遣唐使を遣って制度や文化を取り入れました」という、遣隋使や遣唐使です。遣隋使や遣唐使の実際の姿を通して、当時の日本が何をしようとしていたのかを探求してみたいと思います。
少し、教科書で学んだ情報をおさらいしておきたいと思います。
日本書紀によると、推古15年(607)小野妹子が大唐国(おおからこく)に派遣されます。隋の皇帝である煬帝に宛てた有名な書簡「日出處天子致書日沒處天子無恙云(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)」を持参し、対等の外交をしようとしたと教わりました。
しかし、煬帝から非常に無礼な文章だと怒られます。日本書紀によると、小野妹子は隋からの使者の裴世清を連れて帰国します。この時、妹子は煬帝からの返書をもらったのですが、返書を百済に盗まれて紛失したと記録されています。
一方の遣隋使を派遣された側の隋の正史「隋書倭国伝」には、「開皇二十年、倭王、姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(たりしひこ)、阿輩難弥(おほきみ)と号(な)づく。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る」と記載されています。開皇二十年は、西暦600年です。つまり、小野妹子の7年前に、本当は最初の遣隋使を派遣しているのです。
ではどうして、この事柄の記載が日本書紀にないのでしょうか。何ら国書も持参せずに皇帝を訪問するという、非常識にも程がある行為を行ってしまっているからです。外交というものが全くわかっていなかった国であったことを歴史の事実としては残せなかっのでしょう。そこで、無かったこと(公式の訪問では無かったこと)にされてしまったのです。
当時の日本にも、大陸の動向は伝わっていたのではないかと思います。しかし、当時の聖徳太子か蘇我馬子の時代、すなわち、大王がアメノタリシヒコが治める時代には、倭の五王の時代のような外交に長けた人物は全くいなかったということだと思います。逆に言えば、倭の五王とは、大陸もしくは半島からやってきた渡来人であった可能性が非常に高いのです。そして、8年後、裴世清が会ったのも同じ人物でした。推古天皇は大王ではなかったのです。
日本側の記録では、隋の煬帝からの国書を盗まれたことになっています。実際に小野妹子が紛失したなどということは、どう考えてもあり得ないことだと思います。裴世清が一緒に居たのです。本当に百済が盗んだのなら記録に残りそうですが、隋書にも、そのような記録は書かれていません。
小野妹子は、日本書紀には「使人長吏大禮 蘇因高」とあり、大礼という位をもち蘇因高と名乗っていたことがわかります。「妹子(いもこ)」だから因高なのでしょうか。なぜ蘇と名乗ったのでしょうか。蘇は中国では全国的に広がっている姓でもありますが、朝鮮でも有名な姓の一つです。韓国で有名な花のムクゲを意味するものです。彼は、半島からやってきた通訳であったのかもしれません。
この蘇因高こと、小野妹子は、一時流罪になるのですが、最後は、冠位十二階の最高位の大徳にまで出世します。この古代史探求レポートでも、一度取り上げさせていただきました。河内郡太子町に彼の墓はあるのですが、滋賀県大津市にも彼の墓は存在しています。彼は本当に日本人であったのでしょうか。
日本書紀によれば、この後、608年に小野妹子が再び遣隋使として派遣され、高向玄理(たかむくのくろまろ)南淵請安なども一緒に隋に渡りました。裴世清を送っていくというの第一の目的でした。その次は、614年犬上御田鍬らが、隋に派遣され、この時は百済の使いとともに戻ってきました。日本書紀によれば、この3度が遣隋使の派遣となるのですが、隋書によれば、610年にも出していますから、600年も含めて5回も送っています。
日本書紀によれば、聖徳太子が隋と対等な関係を結ぼうとして文書を送り、開始したように記載されていますが、実際はそうではなかったのです。
外交も知らない国が、無礼千万な訪問を皮切りに、国書を持参するようになるも、記載方法も知らず「無礼である」と怒りを買い、その上、返書を紛失するという大罪を犯したことにしなければならないほど歴史上に残せない文書を受け取り、やって来た使者は本国まで送り届けるという徹底的な上下関係を強いられた外交を行なっていたというのが真実の姿のようです。
数年おきに派遣して、ご機嫌伺いをして戻ってくる。冊封国として、怒りを買わないように必死に対応し、できうる限りの情報を持ち帰って国の体制を整えようとしたのです。裴世清の報告によれば、竹斯國(筑紫)と秦王國(中華民族の国)を通って、都は間違いなく邪靡堆(ヤマト)であったのです。
619年に隋が滅ぶと、10年ほどして、今度は唐に朝貢するようになります。舒明天皇の2年、西暦630年、再び犬上御田鍬が送られます。この時は、唐から、高表仁がやって来ます。また僧旻の名前や、新羅の使者も一緒であったことが記録されています。その後10数回、15年から20年に一回づつ唐には使いが送られました。
600年代は、百済や新羅の使者が同行するほど、東アジア全体が激動の時代でした。その意味では、隋に守ってもらおうとしたタリシヒコの方針は正しかったのかもしれないとも思います。
650年を過ぎると、653年、654年、659年と非常に短い間隔で遣唐使を派遣しています。659年の遣唐使であった伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)は「国家来年、必ず海東の政有らん。汝等倭の客、東に帰ること得ざれ」と唐の高宗による命令により、長安で幽閉されてしまったと日本書紀に記録されています。これは、翌年の660年の百済の滅亡に大いに関連してのことなのです。
高宗は、遣唐使にスパイ容疑をかけ、情報が漏れることを恐れたのです。短期間のうちに、3回もの遣唐使が組まれたのは、やはり、動乱の東アジア情勢を見極めるとともに、日本は唐に逆らいませんという旨を示す狙いがあったのだと思います。しかし、幽閉されてしまったことで、情報はもたらされず、百済は滅亡してしまいました。この頃の遣唐使の役割とは、間違いなく諜報活動、スパイであったのです。
その後、何を勘違いしたのか、天智天皇は42000もの倭国軍を率いて、唐と新羅連合軍と戦います。これが白村江の戦いです。そして、見事なまでの完敗を喫したのです。百済の王子である豊璋がいたのは事実だとしても、なぜ、戦いを挑んだのかはわかりません。必ずや新羅を助けるようにと言われていたはずです。しかし、正反対の行動に打って出たのです。
敗戦するや否や、665年には、やって来た唐使の劉徳高を送るのに守大石(もりのおおいわ)等が付き添って唐へ出向きます。代わりに、唐使の法聡がやって来ます。日本は完全に敗戦国として駐留する唐の司令官の指示に従っていたのです。
667年には、この法聡を送るために伊吉博徳が遣わされます。669年には河内鯨が遣わされました。遣唐使であったものの、彼らが向かった先は、唐ではなく百済であったとされています。百済には唐の駐留軍がおり、日本はここに出向き、忠誠を誓っていたのです。新唐書日本伝によると「(670年)遣使して高麗を平らげるを賀す」と記載されています。なんのための遣唐使であったのかは明らかです。
高句麗が滅亡するのが668年、その後、唐の支配が朝鮮半島全域に及ぶのかと思われたのですが、滅んだ高句麗の残党が唐の支配に対して反乱を起こした時、なんと、今度は新羅が高句麗の残党に味方をし、唐は朝鮮半島から手を引くという構図に変化して行ったのです。日本にとっては、本当にこの偶然が幸いしました。唐に攻め込まれることもなく、自国の組織を堅牢なものにし、天皇中心の国家を作り上げる時間を得ることができたのです。
702年には、日本と名乗って、全く新たな国として再び外交と文化の使節として遣唐使を派遣できるようになったのです。日本は倭とは別の国でなければなりませんでした。旧唐書には「倭の別種」であると記載されています。倭という名前の国は、百済を救済しようとして唐に刃向かった許し難い国です。倭からの遣唐使など受け入れられるはずもないのです。ですから、違う国として新たな外交を始める必要があったのです。
自分達は日本で倭ではない。そう明確に伝えることが、この時の遣唐使の役割だったのです。そして彼らはその役目を達成しました。旧唐書は、倭国伝と日本伝を別に有しているのです。
700年代になると、遣唐使もかなり大掛かりなチームを組むようになりました。船の数も2隻から4席へと変わっています。旧唐書倭人伝には、「開元の初、また使を遣わして来朝す。因って儒士に経を授けられんことを請う。四門助教趙玄黙に詔し、鴻臚寺に就いてこれを教えしむ。」とある通り、真摯に中国の文化を学ぼうとしていた遣唐使の姿が書き残されています。
また、できる限りの文籍を買い漁って帰って行ったとも記載されています。この頃になり、ようやく本来の文化使節としての意味合いが強くなって来たのだろうと思われます。
遣隋使に始まった、日本最初の外交は、決して対等の外交で始まった文化使節では無かったのです。最初の女帝であったはずの推古天皇の国、否、タラシヒコの国は、全く常識を知らない、まさしく手探りの中で始まった国であったようです。完全に隋の支配下にあって、恭順の意を示しながら、必死に隋を真似ようとしていました。
隋が唐に変わると、東アジアの情勢は大きく揺れ動きました。覇権を広げようとする唐への諜報活動こそが遣唐使の役割となりました。野蛮な国は、目をつけられながらも、何とか生き延びます。そして、700年代に入り、倭を革命で失った日本は、ようやく普通の冊封国として文化使節団の遣唐使を送ることができるようになったのです。私達が教科書で学んだ姿は、後半の遣唐使の姿であって、そうなるまでに、凡そ100年の歳月を要したのです。
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<<編集後記>>
日本は昔から独立を保ち、中国に対しても対等であろうとしたというのは、やはり戦前の誤った教えです。日本書紀も、決して日本が野蛮な国から始まったなどとは記して残しませんから、非常に高邁な精神を持った国であったと言いたかったのだと思います。
後世に生きる私達が、先祖が立派な国であったと作り話であっても残そうとするのを、否々違います、などという必要はないのかもしれません。ただ、今北朝鮮を見るにつけ、天智天皇の頃の日本もこんなではなかったのかと思ってしまうのです。世襲を重んじ、外交を忘れて破滅に突き進む。やはり、歴史は正しく理解し、同じ過ちを繰り返さないことが重要なようです。



<発行者> 株式会社歴史探求社
<公式サイト> www.rekitan.co.jp
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僕は『絶対倒産する』と言われたOWNDAYSの社長になった。
売上20億,負債14億,赤字2億『絶対倒産する』と言われ、メガネ業界内ではただの質の悪い安売りチェーンと馬鹿にされ続けていたOWNDAYS(オンデーズ)を30歳の時に買収し社長に就任。その後、10年間で奇跡のV字回復を遂げて、売上150億,世界10カ国に進出するまで・・、みたいな巷によくある再生物語。半分ノンフィクション。半分はフィクション。いつまで、どこまで書き続けるかはまだ未定です。 https://www.owndays.com Twitter:https://twitter.com/shuji7771 blog:https://ameblo.jp/shuji7777/
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