古代史探求レポート

正しい皇位継承の謎


カテゴリー: 2017年06月20日
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古代史探求レポート 2017年6月21日号
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「皇位は,皇統に属する男系の男子たる皇族が,これを継承する(憲法第2条,皇室典範第1条・2条)」これが、現在の皇位継承を定義する法律の文言です。しかし、これが古代から続けられていたわけではありません。皇位継承を定めた最初の法律は、天智天皇が定めた不改常典(ふかいのじょうてん)であったとされています。改めてはいけないこの法律を、誰かが変えてしまったのですが、それはそれ程昔のことではないのです。
江戸時代まで、この不改常典(ふかいのじょうてん)により受け継がれてきた皇室並びに天皇の位は、明治以降大きく変えられてしまっているのです。私は、それを本来の決まりに戻す必要があるのではないかと考えるのです。伝統を守り、先人が目指した皇室への想いを受け継いでいくことは、日本人であることの義務であると思うのです。
先日、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が国会で承認されました。漸く、天皇陛下が自らの意思で皇位を退くことが認められました。これも、古代においては当然のことであったのですが、それが間違った観念と明治期の革新という名の暴走により、歪められてしまっていたのです。一つ正すことができたことは、素晴らしいことであると思います。
しかし、それが全てではありません。皇室を本当の意味で存続させ、今後も未来永劫続けていこうとするのであれば、不改常典(ふかいのじょうてん)に従った皇位継承に戻るべきなのではないかと強く感じているのです。
今回は、その不改常典に関連した、一つの誤った歴史の謎について焦点を当ててみたいと思います。また一つ、真実が見えてくるかもしれません。
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■ 泉涌寺(せんにゅうじ)の歴史から考える   

泉涌寺(せんにゅうじ)をご存知だろうか。京都の東山三十六峰の一つ、月輪山(つきのわやま)の麓にある泉涌寺は「御寺(みてら)」と呼ばれ、皇室の菩提寺として知られている。(中略)
この泉涌寺の境内に霊明(れいめい)殿がある。そこには天智以下、歴代天皇の尊牌が安置されている。その天皇の名前はつぎのとおり。天智天皇、光仁天皇、桓武天皇、嵯峨天皇、淳和天皇、・・(途中略)・・孝明天皇、明治天皇、大正天皇 (陽光天皇に関する記載 略)
これを見ると、確かに、天武天皇の縁者や子孫で天皇になった持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙(称徳)・淳仁らの位牌が霊明殿に祭られていない。
これら「天武系」の天皇の位牌が霊明殿に安置されていないのは、「天智系」と「天武系」が対立関係にあって、「天智系」が復活した後は「天武系」が意図的に排除された結果と考えたくなるのも分からない話ではない。そうであるならば、泉涌寺に「天武系」天皇の位牌がないこと自体が、「天智系」と「天武系」とが対立関係にあった何よりの証拠ということになるであろう。
さらに泉涌寺霊明殿に「天武系」の位牌がないのは、天智と天武が実の兄弟ではなく(天武が兄、天智が弟で異父兄弟関係にあったとする説もある)、天武が実は天皇家とは無縁の存在だったからとする極端な所説も唱えられている。皇室の菩提寺なのにそこに天武らの位牌がなく、いわば先祖として供養されていないのは、彼らが天皇家とは本来縁のない存在だったからというわけである。
しかし、このような考えが間違っていることは、霊明殿に祭られている位牌の来歴を見れば明らかであろう。(以下略)
(天武系皇統は実在したかープロローグより抜粋 「古代の皇位継承」 遠山美都男 吉川弘文館)
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古代史探求レポートは、日本書紀と古事記に記された歴史の謎を中心に個人的な見解を報告させていただいてきました。この方向性は今後も変わらないかもしれませんが、今回は少しだけ歴史を伝って「天武系」皇統の断絶についてお話しさせていただきたいと思います。
壬申の乱により、天智天皇の子供の大友皇子を倒し、天武天皇が皇位を奪いとりました。その後、天武天皇の意思を継ぎ、天武天皇の皇后であった持統天皇が皇位を継承します。これは、子供の草壁皇子、そして、それが叶わないとなったため、その子供であり孫にあたる文武天皇に皇位を渡すために、持統天皇が皇位を保持し続けたとされています。これは事実なのでしょう。
藤原不比等を筆頭に、持統天皇を支えた優秀な家臣による努力の結果であることは間違いありませんが、持統天皇の皇位継承並びに、持統天皇から文武天皇への皇位継承を正当化するために、日本書紀は大きく内容が変更されてしまいました。
女神である天照大神の「孫」の瓊瓊杵命が天孫降臨をして葦原中国である日本を治めた図式も、推古天皇(敏達天皇の皇后)から敏達天皇の「孫」の舒明天皇に皇位が移った図式も、全ては持統天皇から文武天皇を正当化させるための先例としての創られた歴史であったと私は考えています。
この文武天皇の後は、文武天皇の母の元明天皇へ移り、そして、文武天皇の姉の元正天皇に移り、ようやく成人した文武天皇の息子の聖武天皇に移ります。そして、聖武天皇の後は、聖武天皇の娘の孝謙天皇、そして、孝謙天皇は、天武天皇の孫の淳仁天皇に皇位を移すも、再び、皇位に復帰して称徳天皇となり、称徳天皇の死後は天智天皇の孫の光仁天皇(こうにん)へ、そして、その子供の桓武天皇へと引き継がれていくのです。
すなわち、天武、持統の後、称徳天皇までは天武天皇の血筋の天皇であったのですが、光仁天皇以降は天智天皇の血筋に戻り、その後、ずっとその系統が今日まで続いているのです。光仁天皇以降は、二度と天武天皇の血筋に戻ることはなかったのです。
見方によっては、壬申の乱以前からの天智天皇、天武天皇の争いが根強く尾を引き、天武系にしてみれば、大友皇子を殺害し勝ち得た皇統であったにもかかわらず、結局は天智天皇の系列が勝利を収めたようにも見えるのです。英国の詩人であるバイロンは「事実は小説よりも奇なり。」と言いましたが、私が名付けて小説にするなら「天智・天武の百年戦争」とするだろうと思われるほど、歴史は不思議な動き方をしたのです。
このことから、今回紹介させていただいた遠山美都男さんのプロローグにあるように、様々な説や憶測が乱れ飛ぶこととなっているのです。
さて、泉涌寺(せんにゅうじ)問題に関して、少し、解説を付け加えさせていただきたいと思います。泉涌寺は皇室の菩提所として「御寺」と呼ばれる、有名は真言宗のお寺です。実は先日、華道の池坊の映画である「花戦さ」を見てきたのですが、池坊の家元は京都のお寺の紫雲山頂法寺(六角堂)です。仏教と華道というのは深い関わりがあるようで、泉涌寺も「華道 月輪未生流」の家元でもあります。
皇室の菩提寺なのに、天武系の位牌だけが置かれていないとして、天武は天皇家の血筋の人ではなかったなどという説がまことしやかに語られるようになっているのです。しかし、これには、非常に明解な理由があるのです。
泉涌寺は、鎌倉時代に宋への留学から戻った俊芿(しゅんじょう)が宋から文物を持ち帰り、この寺を再興しました。そして、後堀河天皇の時には皇室の祈願寺に任じられました。後堀河天皇は、後鳥羽上皇などの並々ならぬ権力欲のあった人々が、配流された次の天皇です。10歳で天皇となり、21歳で2歳の四条天皇に譲位し、その後上皇として院政を行おうとしましたが、非常に病弱で2年で崩御してしまいます。そして、泉涌寺の中に陵が作られました。この後の四条天皇の陵もこの寺にあります。
このような縁で、泉涌寺は皇室との繋がりが非常に強固なものとなっていたのですが、1876年(明治9年)6月に宮内庁から出された通達により、京都府にある各寺院の歴代天皇の位牌や像は全て泉涌寺に合併されることになったのです。
このため、京都に都があった時の天皇の位牌の全てが、この寺に集まることになりました。ご存知の通り、天武天皇の都は飛鳥浄御原宮です。持統天皇や文武天皇は、藤原京。元明天皇以降は平城京です。皆、京都に住んでいないわけですから、位牌がないのも当たり前です。例えば、聖武天皇は奈良の東大寺を作り盧舎那仏を建立したことで有名です。聖武天皇の位牌は当然、東大寺にあるのであり、泉涌寺に置かれなければならない理由は何もないのです。
こうして見ると、泉涌寺に置かれていないのは置かれていないだけの理由があるのです。ただ、位牌は一つでなくてもいいわけですし、現実に皇居の中にある皇霊殿には、歴代天皇の位牌が収められていると言います。そうであるなら、御寺と呼ばれる泉涌寺に、奈良の寺にある位牌も置いてもいいのではないかとも思いますが、そこにはきっと、寺や仏教界を巻き込んだ思惑が作用しているのだと思います。
では、天武系が続かず、なぜ、天智天皇の系列に戻ってしまったのかを、その当事者である光仁天皇の時代を見ることで確認してみたいと思います。
聖徳太子に始まり、舒明天皇でも、皇位簒奪のクーデターがあったのだと私は考えているのですが、その後の皇極天皇の時には乙巳の変が勃発し、天智天皇の後には壬申の乱が起こります。600年代以降は、大王の地位が確立されて、非常に大きな権力が確立した時期であったのかもしれません。それだけに、可能性のあった人々は、大王の地位を得ようと必死になったように思います。
それに終止符を打とうとしたのが、天智天皇であったのかもしれません。彼が作ったとされる「不改常典」は、しばしば引用されたことが続日本紀以降の正史に示されています。この不改常典に従って、皇位継承を実施したと記録されているのが、元明、聖武、孝謙、桓武、淳和、仁明、清和、陽成、光孝、後三条、安徳、四条、後柏原、中御門の各天皇です。ここには、多分、兄弟への継承を廃して、直系での継承が優先されなければならないと記載されているのではないかと言われています。
そうであるとするなら、この「改めるまじき常の典と定め賜ひ敷き賜ひた法」として、規定された天皇の皇位継承方法を守るのであれば、現在の天皇の後、皇太子の浩宮様がなられた後は、愛子様が継承されるのが正統となります。聖武天皇には、男子がいませんでしたので、女性の孝謙天皇が誕生しました。これもまた、不改常典に従ったと記載されています。
不改常典に従って天皇になったと記載されている、元明天皇は女帝ですし、その後の元正天皇も女帝です。愛子様にこがない場合のみ、秋篠宮家の子息に皇位がわたるのです。それと同じことが起きたのが、光仁天皇の即位でした。
ただ、不改常典そのもの自体の文言は公にはされていません。私は、今でも皇室に残されているような気がするのですが、その内容は伝わってはいないのです。従って、兄弟への継承を廃して、直系での継承を優先するというのも推測でしかありません。
もしかすると直系天皇家の中で、最も濃い血を受け継ぐ者という記載であったのではないかとも思います。だからこそ、舒明天皇と皇極天皇の子である天智天皇自身が最も正当化され、その時、同じ血である大海人皇子が皇太子となれたのではないかと考えるのです。その上で、天智天皇は自分の娘を大海人皇子に嫁がせ、その娘が持統天皇となり、その元で生まれた草壁皇子の妃であったのが元明天皇です。元明天皇自身が天智天皇の娘です。血の濃さでは言えば申し分ない資格者になるからです。
不改常典に従って天皇になった孝謙天皇は、後に、重祚して称徳天皇となります。天武系の最後の天皇です。少し前にこの探求レポートで取り上げた宇佐神宮の託宣により道鏡を天皇にしようとした女帝です。この称徳天皇は生涯独身を通しました。このことから継承者がいなくなったのです。
そして、白壁王が選ばれ光仁天皇になります。扶桑略記によると、藤原百川が称徳天皇の遺言であると読み上げて白壁王になったとされています。藤原百川の作った偽物であったという説もありますが、真相は分かっていません。白壁王は天智天皇の孫にあたります。
では、なぜ天武系が途切れるにもかかわらず、白壁王が選ばれたのでしょうか。白壁王の皇后は井上内親王です。この人は、聖武天皇の娘でした。そして、井上内親王との間に他戸親王が生まれていました。他戸親王は、天智系であるとともに、天武系でもあります。彼が天皇になる可能性が、この時点では最も大きかったのです。事実、他戸親王は皇太子となるのです。
しかし、ここから藤原百川が暗躍します。井上内親王は、光仁天皇を呪詛して呪い殺そうとしているという罪を着せられます。実際殺してはいないのです。今日で言うところの、テロ等準備罪です。これによって井上内親王と他戸親王は皇室から追われるとともに、幽閉先で亡くなってしまうのです。殺されてしまったのではないでしょうか。
そして、百済系渡来人の高野新笠と白壁王との間の第一皇子であった山部王が桓武天皇となるのです。これによって天武系は途絶えることになったのです。
時代の流れからいくと、天智系対天武系という戦いの構図は見えてこないのです。天武系は偶然にも、ここに途切れてしまうことになるのですが、そこには、天武系だから排除しようというような意図は全く感じられませんでした。それ以上に、権力欲の強かった周囲の人間達による策謀に、天皇家が踊らされていたと言った方が良いのかもしれません。
国を憂い、新たな理想を胸に国家を作りたいと燃えた天武天皇、その意思を受け継いで政策を成し遂げた持統天皇。その高尚な目的は、皇位が継承されるごとに薄れてゆき、そこに権力を狙う人物が関与することにより大きく歪められていったように思います。天智系と天武系の争いは、壬申の乱という古代最大の合戦に始まるだけに、非常に面白い視点であるのですが、天智天皇も天武天皇もそのような狭小な考え方は微塵も持っていなかったようです。
天武系が消えてしまったのは、天武天皇の出処にあるのではありません。藤原氏の欲望が作り出した単なる副産物であったようです。
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<<編集後記>>
巨人のGMが解任されましたが、今季巨人が弱いのはそういう問題ではないように思います。現場を指揮しているのは監督だと思うのですが、なぜにあそこまで監督を庇うのでしょうか。チーム作りは年月が必要なもの。中長期計画を達成するための期間が必要ですが、それは短期戦略を組み合わせて成し遂げられるもの。その両方を考えて、一年のペナントレースを戦うべきものなのではないのでしょうか。
どう見ても、戦っている現場がおかしいように思うのは私だけなのでしょうか。

<発行者> 株式会社歴史探求社
<公式サイト> www.rekitan.co.jp
<問い合わせ> web@rekitan.co.jp
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