[肖像ドットコム]時空を超えて~歴代肖像画1千年

【肖像ドットコム】時空を超えて~歴代肖像画1千年 No.0025-2


カテゴリー: 2018年01月31日
肖像画・油絵の注文制作 肖像ドットコム http://www.shouzou.com/

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 【肖像ドットコム】時空を超えて~歴代肖像画1千年        No.0025-2

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                          2018年01月31日発行

★★★歴史上の人物に会いたい!⇒⇒⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。
そんな夢を可能にするのが肖像画です。

 織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、ジャンヌ・ダルク、モナリザ
……古今東西の肖像画を画家と一緒に読み解いてみませんか?


□≪今週の内容≫―――――――――――――――――――――――――□

【1】 ルノワール作「ジャンヌ・サマリーの肖像」
    (プーシキン美術館、モスクワ)
【2】 肖像画データファイル 
【3】 像主について

 ※【1】【2】【3】の項目は No.0025-1に収録。

【4】 作者について 
【5】 肖像画の内容 
【6】 次号予告
【7】 編集後記


★★ルノワール作「ジャンヌ・サマリーの肖像」はこちら
⇒⇒⇒ http://www.shouzou.com/mag/p25.html




□――――――――――――――――――――――――――――――――□


◆【4】作者オーギュスト・ルノワール(1841-1919)について ━━━━━━◆

 19世紀フランス印象主義の代表的な画家。陶器の絵付け職人から転じた。ロ
ココ主義の画家ワトー、ブーシェ、フラゴナール等の影響を受け、美術学校に
学ぶ。主に油彩で屋外の人物画を制作。特に肖像画に優れる。

 モネ、シスレー、モリゾ、セザンヌら印象派仲間との交友は生涯続いた。壮
年期以後はリューマチに苦しみ、指が不自由になったが、光あふれる静物画や
水浴する裸婦像など生の讃歌を描き続けた。

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 1.絵画への目覚め(1841-1860年)

 フランス中部に位置するリモージュは磁器の町として知られている。1841年
2月25日、ピエール・オーギュスト・ルノワールはこの地で7人兄弟の6番目の子
として誕生した。

 父は貧しい仕立職人レナール・ルノワール(1799-1874)、母は婦人服の縫
い子だったマグリット・メルレ(1807-96)である。夫婦は15年ほどリモージ
ュで暮らし、その間に生まれた長男は彫金師となり次男は仕立て屋となった。

 1844年一家は仕事を求めてパリに移る。おそらく父レナールはリモージュ在
住の頃から、磁器職人への憧れがあったのだろう。1854年13才になったオーギ
ュストを、レヴィ兄弟の経営する磁器工房に修行に出した。

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 磁器工房での絵付けの見習いとして入ったオーギュストはすぐに習熟し、工
房の売り上げに貢献するようになる。

 ある日のこと昼食のために近くを歩いているといつもは気にしていなかった
噴水の前で動けなくなった。彼を立ち止まらせたものは石に刻まれた浮き彫り
「イノサンの泉」である。それは芸術作品から受けた最初の霊感であった。

 「イノサンの泉」とは彫刻家ジャン・グージョン(1510-68頃)の作品で、
建築家ピエール・レスコー(1510-1578)が設計した石造建築の東西南北のファ
サードに、それぞれ二人の女神が彫られている。

 八人八様に異なるポーズをとる女神たちの輪郭線は実に美しく、絵画のよう
であった。「なんたる清純さ、初々しさ、優雅さ、そしてまた素材に刻まれた
なんたる堅実さ!」―後年彼はそう語っている。

 絵付けの参考のために近くのルーブル美術館へ通い、ワトー(1684~1721)
ランクレ(1690-1743)、ブーシェ(1703-70)、フラゴナール(1732-1806)
といったフランスのロココ美術の画家たちの作品に親しんだ。

 また彫刻家の主催するデッサンの夜間教室にも学んでいる。

 当時オーギュストが描いた壺絵磁器の作品は、パリの装飾美術館に残ってお
り、その女神の裸身は確かに、ロココ様式をたたえ、後年の裸婦作品をも彷彿
とさせるものがあった。

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 しかし、彼の職工時代は長くはなかった。磁器絵付けの機械化が普及し始め
手描きの磁器が流行らなくなったのである。大量生産の時代が来ていた。工房
の経営は傾き、17才のオーギュストは仕事を失った。

 次いで、彼は日よけのための御簾(みす;すだれ)に絵を描く画工の職を得
た。御簾はキリスト教の伝道士たちが南アジアなどで布教する際に、ステンド
グラスの代用として礼拝堂で用いられた。

 この仕事は良い金になったのだが、もうその頃になるとオーギュストは国立
美術学校に入って本物の画家になる確固とした志を抱いていた。そして彼はこ
つこつと金を貯めて、一年間学生として過ごせるだけの生活費を確保した。

 1860年ルーブル美術館で絵画作品を模写する許可を受けたとき、オーギュス
ト・ルノワールは19才となっていた。

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 2.サロンと印象派(1861-1880年)

 1862、21才となった彼はパリの王立美術学校(アカデミー・デ・ボザール)
を受験し合格した。成績は80名中68番で、スイス人画家シャルル・グレールや
アカデミー会員のエミール・シニョールの厳格な指導を受けることになる。

 当時の美術学校におけるアカデミックな教育とは、古典作品・歴史画(理想
化された表現)、解剖学、明暗法、遠近法表現と言い換えてもよいだろう。

 ルノワールはグレールのアトリエで、クロード・モネ、アルフレッド・シス
レー、フレデリック・バジールという3人の学生と親密となった。彼らのうち
ではクロード・モネが最も多く絵画での経験を積んでいた。

 モネはグレールやシニョールを毛嫌いしており、頑固で自信にあふれていて
影響力も強かった。やがて4人の仲間に、別の画塾で学んでいたカミーユ・ピサ
ロとポール・セザンヌが加わった。

 彼らはアカデミック派と闘い続けてきたロマン主義の画家ドラクロワや、写
実主義のクールベ、自然主義のコロー、外光派のヨンキントやブータンを敬愛
し、歴史的題材ではなく、田園や都市の日常生活を描きたいと考えていた。

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 画家は絵を売ることで自活しなければならない。そのためには有名になるこ
とが第一だが、それにはまずサロンという王立アカデミーの展覧会(官展)に
絵が展示される必要がある。

 1863年のサロンは特に審査が厳しく、落選者たちの抗議が激しかったため、
時の皇帝ナポレオン3世によって『落選者のためのサロン』が開かれた。この
とき最も注目を浴びた画家がエドアール・マネだった。

 マネが出品した「草上の昼食」と題する絵の中には、ピクニックでくつろぐ
正装の男達に混じって裸婦が座っていた。それまでは裸婦は神話の中でのみ描
くことを許されるものであったから、これは大変な非難を呼んだ。

 しかし、アカデミズムにうんざりしているルノワールらはこの作品に釘付け
となった。さらにその2年後のサロンでマネの出品した「オランピア」が騒動
を引き起こす。ベッドに横たわる裸婦は娼婦を意味するリボンを付けていた。

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 絵画の革命が胎動し始めていた。まもなくルノワールたちは、マネの出入り
するカフェ・ゲルボアにたむろするようになり、それはバティニョール通りに
あったことから、保守的な人々からバティニョール派と呼ばれるようになる。

 このカフェにはマネを慕ってエドガー・ドガ、ファンタン=ラトゥールとい
った画家やエミール・ゾラ、デュランティといった文人たち、美術愛好家のエ
ドモン・メートルなどたくさんの知識人が集っていた。

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 ルノワールは1863年、初めて作品をサロンに送ったが落選となる。この年ヴ
ィクトル・ユーゴーの小説『パリのノートルダム』から着想を得て「乞食の群
れの中で踊るエスメラルダ」を制作した。

 アカデミックな明暗法と人物表現に則った暗褐色の絵で翌1864年のサロンに
初入選を果たす。同年春には美術学校を卒業した。

 夏になるとルノワールたちはフォンテーヌブローの森に行って制作をした。
この森で彼は、バルビゾン派の中で最も敬愛するディアズという60代の画家に
出会い助言を受けた。「なんだってこんなに黒っぽく描くのかね」

 この助言はルノワールにとって生涯の指針となったといえるだろう。彼はす
ぐに明るい色調で風景画制作を始め、サロンから戻って来た「エスメラルダ」
を破り棄ててしまった。

 1866年ルノワールはリーズ・トレオという女性と親しくなり、6年後彼女が
別の男性と結婚するまで、お気に入りのモデルとして描き続けた。

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 1870年7月フランスとプロシアの間に戦争が起こり、ルノワールは短期間軍
務につく。9月に母国の敗北。翌1871年パリ・コミューン(自治政府)の成立
と崩壊。チュイルリー宮、大蔵省、市庁舎、リヴォリ街が廃墟となった。

 混乱のさ中、普仏戦争に志願していた友人のバジールは退却中に戦死。モネ
とピサロはロンドンに逃れた。ここで後年印象派の先駆者と呼ばれることにな
るターナーとコンスタブルを知ることになる。

 英国籍のままだったシスレーは資産家の父が破産し直後に死亡。長く苦境に
たたされることになった。

 しかし戦争はバティニョール派の画家たちにひとつの幸運をもたらした。ロ
ンドンでモネやピサロと知り合ったブルジョワの画商デュラン=リュエルが彼
らに関心を示しはじめたのである。

 1872年にはコニャック業者のテオドール・デュレがルノワール作品を買い取
った。

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 1874年は印象派誕生の年である。戦争後のサロンに落選し続けたバティニョ
ール派の若い画家たちは、自前で展覧会を組織した。変なレッテルを貼られな
いよう、会の名称は『画家・彫刻家・版画家共同出資組合』とされた。

 会場は写真家ナダールの経営する写真館。会期はサロン開幕の2週間前、4月
15日から5月15日の1ヶ月間。30名の画家たちによって165点の作品が展示され
た。

 入場者数の総計は3510名。開幕から数日は200名近くが入場した。けれども
結果は大失敗で、組合の収支は、売上3700フランに対し支出が9300フラン近く
になり大赤字であった。

 観客のほとんどには彼らの絵がへたくそな絵にしか見えなかったのである。

 批評家のルイ・ルロワは、モネがあまり考えないでつけた海景画のタイトル
「印象・日の出」を見て、“印象派美術展”と勝手に題した批評記事を、4月
25日付けの『ル・シャリヴァリ誌』に書いている。

「印象ね、なるほどと思ったよ。こんなに強い印象をうけるところを思えばあ
の中にきっと印象が存在しているに違いないと私も思った。描き始めのまだ何
が描いてあるか判らない紙の方が、あの海の絵よりはよく描けている」

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 窮乏の中で彼らは作品の競売を思いつく。1875年5月24日、画商デュラン=リ
ュエルを鑑定人としてホテル・ドゥルオで72点の売り立てが行われたが、これ
も二束三文で落札されるだけに終わった。

 しかし、ルノワールにとって幸いだったのは、ふたりのコレクター、関税局
の役人ヴィクトール・ショッケと、出版社を経営するジョルジュ・シャルパン
ティエが作品を購入したことである。

 1876年4月には、デュラン=リュエル画廊で第2回めの“印象派展”が開催さ
れた。参加者は19名で、252点の作品を展示。

 ルノワールは「ピアノに向かう婦人」「陽光を浴びる裸婦」「着物姿の女性
像」など15点を出品。日本趣味の流行で「着物姿」は高値で売れたが「裸婦」
は“腐乱死体”“天然痘にかかったモデル”と酷評された。

 この展覧会を新聞はこぞって取り上げたが、“芸術の非妥協派”“狂人グル
ープの作品、でたらめに色を投げつけてはこれでよしと署名する”といったよ
うな論調だった。

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 第3回目の印象派展は、1877年4月4日から30日まで、ル・プルティエ通りの
広いアパルトマンで、開催された。参加者は18名。彼らはこのときになって初
めて自ら“印象派”と名乗ることを決めた。

 そして今や彼らの作品はより成熟し、確固たるそれぞれの様式をたたえた印
象派絵画そのものであった。

 ルノワールは「ジャンヌ・サマリーの肖像」「ブランコ」「ムーラン・ドゥ
ラ・ギャレット」「シャルパンティエ夫人の肖像」「ジョルジェット・シャル
パンティエ嬢」「アルフォンス・ドーデ夫人の肖像」を含む22点を出品した。

 しかし、世評はむき出しの敵意をゆるめなかった。“狂気の沙汰”“不愉快
極まりない凄まじい偏見”“革命分子”“明きめくらで不器用な画家たち”
・・・。これに続くオテル・ドゥルオでの競売も失敗に終わる。

 第3回目印象派展の結果は、買い手が減るばかりとなった。ルノワールは決
断を下した。「春にはサロンに出品してみよう。」

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 3.試行の時代(1881-1900年)

 1881年10月21日、ルノワールは旅先のナポリから画商のデュラン=リュエル
に宛てて書いている。

 「なぜサロンに出品するのかをあなたに説明したいと思います。サロンに入
選しない画家を好きになれる愛好家は、パリ中に15人もいるかどうかですが、
サロンに入選しない画家に鼻も引っ掛けない連中は何万といます。

 毎年わずかですが、2点の肖像画をサロンに送っているという理由はそこに
あります。」

 「私はいつも変わりなく良いものを作るということだけに専念しています。
私は素晴らしい絵をあなたのために描きたい、そしてあなたがそれを高く買っ
てくれることを望んでいます。」

 「(印象派の)私の友人たちに私の立場を説明してやってください。サロン
への出品はまったく商業的なものです。どちらにしても、薬を飲むようなもの
です。良いことではないにしても、悪いことでもないはずです。」

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 以下に掲げたルノワールの“サロンへの出品”に関する年表を見ると、ルノ
ワールがいかにサロンを重視していたかが一目瞭然である。

1863年(22才)落選
1864年(23才)入選「踊るエスメラルダ」
1865年(24才)入選「夏の宵」「ウィリアム・シスレーの肖像」
1866年(25才)落選
1867年(26才)落選「狩猟のディアナ」
1868年(27才)入選「日傘をさすリーズ」
1869年(28才)入選「ジプシー女」
1870年(29才)入選「水浴する女とグリフォンテリヤ」「オダリスク」
1872年(31才)落選「アルジェ風に装ったパリの女たち」
1873年(32才)落選「ブーローニュの森の乗馬」
       1874年(33才)第1回印象派展  7点出品
       1876年(35才)第2回印象派展 15点出品
       1877年(36才)第3回印象派展 22点出品
1878年(37才)入選「ココアの茶碗」
1879年(38才)入選「シャルパンティエ夫人と子供たち」
         「ジャンヌ・サマリーの肖像」
       1879年(38才)第4回印象派展 不参加
1880年(39才)入選「猫を抱いてまどろむ娘」
         「ベルヌヴァルムでムール貝を採る女たち」
       1880年(39才)第5回印象派展 不参加
       1881年(40才)第6回印象派展 不参加
1882年(41才)入選「肖像画」
       1882年(41才)第7回印象派展 画商が25点を出品
1883年(42才)入選「肖像画」
       1886年(45才)第8回印象派展 参加を拒絶
1890年(49才)入選「ピアノに向かうカチュール・マンデスの娘たち」

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 サロンに16年間作品を送り続け、入選は11回、落選は5回。最後に出品した
のは、功成り名遂げてのちの49才であった。一方、創立メンバーである印象派
展は前後8回開催されたが、自らの意志で参加したのは第3回までである。

 ルノワールがサロンで大成功を収めたのは1879年の「シャルパンティエ夫人
と子供たち」においてであった。

 同年、大使館書記官であったポール・ベラール夫妻から娘「マルト・ベラー
ルの肖像」の注文を受けた。ルノワールは夫妻の信頼を得て、79年、81年、82
年、84年とたびたびヴァルジュモンの別荘に招かれるようになる。

 1880年にはユダヤ人銀行家の娘「イレーヌ・カーン・ダンヴェールの肖像」
という有名な作品を制作した。

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 同じ頃近くの洋裁店で働く金髪でふくよかな娘、21才のアリーヌ・シャリゴ
と出会う。1881年制作の「水浴する金髪の少女」のモデルはアリーヌであろ
う。大作「舟遊びする人たちの昼食」にも彼女は描かれている。

 1881年から82年にかけてルノワールはアルジェリアとイタリアを旅行し、ポ
ンペイの壁画や、ラファエロのフレスコ壁画に大いに魅せられている。このと
きはマルセイユを経てエスタックのセザンヌを訪問して、パリに帰った。

 1882年から83年の間に、デュラン=リュエルの依頼でダンスの3部作「田舎
のダンス」「都会のダンス」「ブージヴァルのダンス」を制作した。1883年に
はデュラン=リュエル画廊でルノワールの初の個展が開かれるが、

 まもなく彼は印象主義との決別することになる。彼のよれば「1883年頃から
制作にある種の断絶が生じた。僕は印象主義に行き詰っていた。どう絵の具で
描いたらよいか、どうデッサンをしたらよいか分らなくなってしまった。」

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 屋外で制作すると光による効果に目を奪われ、その効果ばかりを追い求めて
構図について考えるゆとりがなくなり、絵を全く構成しなくなる、という考え
がルノワールをとらえて離さなかった。

 イタリアの盛期ルネサンスのただ中を生きたラファエロの、卓越したデッサ
ン力と構成力、絵肌の美しさを実見したがゆえに生じた迷いであったが、パリ
という芸術の都にあって何という晩熟(おくて)であったことか。

 画業のはじめにモネの絵画に圧倒され前衛絵画に飛び込んだルノワールは、
美術史というものを秩序立てて学んだことがなかったのであろう。それゆえに
印象主義絵画という前人未到の芸術を打ち立てることができたかのもしれぬ。

 この頃、イタリア初期ルネサンスの画家チェンニーノ・チェンニーニによる
技法書「芸術の書」を読んで、いかに技術が欠落していたかを痛感している。

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 その結果生まれたのが、“酸っぱい時代(アングレスク)”と呼ばれる一連
の作品群である。アングレスク;アングル時代とは、当時のアカデミック絵画
の代表者・古典主義の巨匠ドミニク・アングルにちなんだ謂いであった。

 印象主義から一転して古典主義に傾斜したルノワールは1884年「ヴァルジュ
モンの子供たちの午後」「髪を編む女」、1885年「雨傘」、1887年「水浴する
女たち」を完成させた。

 これらはやっと認知されつつあった印象主義から逆行するため、画商にもコ
レクターにも不評であったが、今じっくりと見てみるとルノワール絵画には珍
しく構成に力点を置いた絵画であり、興味深い。

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 しかし、酸っぱい時代は1888年で終わり長続きしなかった。1889年頃の作品
には印象主義への揺り戻しを見ることができる。デッサン・構成がやや甘くな
り、形態には“ゆらぎ”というか、“ぼやけ”が始まっている。

 1888年、ルノワールはアリーヌ・シャリゴーを連れて、エクス=アン=プロ
ヴァンスのセザンヌを訪問。片田舎でただひとり制作を続けていた旧友の絵画
に、確固とした様式・構成力を見出し、驚嘆している。

 1890年ルノワールはアリーヌ・シャリゴーと結婚。ふたりの間にはピエール
(1885年)、ジャン(94年)、クロード(1901年)という3人の男子が生れた。

 1894年にはアリーヌのいとこのガブリエルがモデル兼お手伝いとして同居し
ていた。

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 4.晩年(1901-1919年)

 1880年に右腕の最初の骨折。1888年にルノワール家の持病ともいうべきリュ
ーマチ性関節炎の最初の発作。1897年に自転車で、またもや右腕骨折。1899年
再発したリューマチに苦しむ。

 1905年リューマチの悪化。1911年数度の外科手術。1912年腕と足に麻痺。外
科の大手術。

 このような病苦は、ルノワールの指先の自由を徐々に奪い取っていった。老
年期に入ると、若い頃の肖像画を輝かせたよう精緻で軽妙な筆さばきはまった
く見られない。

 形態はどんどん甘くなり、色彩は赤、黄、オレンジといった暖色が多用され
るようになる。身体の動きがままならなくなった老いた画家の描く対象は、バ
ラの花、家族、裸婦に限られるようになった。

 後期の代表作としては1908年の「パリスの審判」、1918年の「大水浴図」な
どがあげられるだろう。

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 作品の上では明らかな退化が始まっていたのだが、もはやルノワールの名声
は広がる一方であった。

 1892年、デュラン=リュエル画廊で122点を集めた大個展が開かれ、大好評
を博す。「ピアノに向かう娘たち」は政府買い上げとなった。1899年、1902年
も同画廊で個展。

 1900年レジョン・ド・ヌール勲章第5等を授与される。
 1904年の第2回サロン・ドートンヌではルノワール室が設けられ、35点が陳
列された。

 1907年から1908年にかけてカーニュに広大な地所を購入し、コレット荘と呼
ばれることになる家を新築。
 1909年、画家梅原龍三郎が訪問。
 1911年レジョン・ド・ヌール勲章第4等を授与される。
 1912年デュラン=リュエル画廊でルノワールの肖像画展。

 1914年、17年、18年、19年ニューヨークのデュラン=リュエル画廊で個展。
 1915年ベルリンのタンホイザー画廊で個展。パリのベルネーム・ジュヌ画廊
で個展。
 1917年画家ピエール・ボナールが訪問。ピエール・マチスとの交友。
 1919年レジョン・ド・ヌール勲章第3等を授与される。画家アマデオ・モデ
ィリアーニが訪問。

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 1911年、70才となったルノワールは、歩くことができなくなり車椅子に頼る
生活となった。リューマチで変形し絵筆を握れなくなった画家は、手に包帯を
巻かせ、その間に絵筆を差し込んでもらって、絵を描き続けた。

 1914年第一次大戦が始まり、長男のピエール、次男のジャンは招集されてい
った。翌年ジャンが重傷を受けたと聞き、糖尿病に冒されていたルノアールの
妻アリーヌが看病に向かう。6月アリーヌがニースで死去。まだ56才だった。

 長く描けない日々が続いたあと、再び筆を取りながら彼は言う。

 「不幸せがほかの人にだけやってくるなどと思うのは虫が良すぎるよ。」

 1919年8月78才のルノワールは、ルーブル美術館に展示された旧作「シャル
パンティエ夫人の胸像」を見るためパリを訪問。美術館長が出迎えて、彼の案
内によって各部屋をゆっくりと見て回った。まるで絵画の法王のようだった。

 帰宅後画家はにんまりとしていた。「30年前に車椅子で行ったら、連中は僕
を放り出したろうさ。こういうことがあるから長生きはしてみるもんだ。」

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 秋になってコレット荘に戻る。11月、熱が出て全身が衰弱した。

 12月2日午後8時、彼は昏睡状態の中でうわごとを言いながら、最後の作品を
描いているようだった。

 「ヤマシギの位置を変えてくれ…早く、絵の具を…
パレットを渡してくれよ。」

 深夜になって画家は落ち着きを取り戻す。

 翌3日午前2時、ルノワールは穏やかな顔で、息を引取った。


◆【5】肖像画の内容について━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

  「絵というものは私にとって、愛すべきもの、愉しく美しいものでなけれ
 ばならない。そう、美しいものだ!人生には嫌なことが多すぎるんでね、こ
 れ以上嫌なものなんかこしらえたくないのだ。」

 これは、ルノワールの言うように、

 愛らしい、美しい肖像画である。モデルとなったジャンヌ・サマリーが美し
いだけでなく、この縦56cm×横47cmの画面全体が光り輝くように美しい。この
ような肖像画はそれ以前の肖像画の中では見られない画期的な絵画であった。

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 これまでこの歴代肖像画のエッセイで取り上げたレオナルド・ダ・ヴィンチや
ラファエロ、ファン・アイク、ホルバイン、ブロンズィーノ、ゴヤのような油
絵しか知らない西洋人が見たら驚きを隠せないはずである。

 1874年の第3回印象派展にこの絵が展示されたとき、美術審査官ロジェ・バ
リュは「これ以上“本当の”自然から遠いものはない」と批評しているのだが

 当時それを見た人々のほとんどは、「これは立体感がまるでない」「何と絵
をかけない絵描きのいるものだ」と嘆息したに違いない。

 一方同じ19世紀の日本人ならば、微笑を浮かべながら即座に理解できるはず
である。

 その中に脈々と流れている血が同じなのである。いくらルノワールが日本絵
画に無関心であったとしても。

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 印象主義とは、

 伝統的な絵画様式を絶対とするフランス王立アカデミーのサロンに何度も落
選して絶望した若い画家達が始めた反アカデミック運動であった。

 作品の展示場所と売り場を得るための、それは貧乏にあえぐ彼らにとって生
活の糧を得るための切実な闘いであった。

 印象主義の先駆者となったのは同時代のフランスのギュスターヴ・クールベ
及びコローやミレーなどのバルビゾン派であり、自然の中に画架を立てて描く
人々であった。

 そしてより直接的に、

 “印象主義の母”と呼ばれるのが、やはり外光のもと、それまでになかった
明るい海景画を描いた、ウジェーヌ・ブータンやオランダ人ヨンキントであり

 “印象主義の父”と呼ばれるのが日本の浮世絵版画に大きな影響を受けたエ
ドアール・マネであった。

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 ブータンやヨンキントは、クロード・モネを野外に連れ出して、明るい陽光
の下で一緒に制作することで、若い画家を外光派に変えたし、(ブータンは
第1回印象派展に出品している。)

 マネは彼のもとに慕い集う若者たちと共に、バティニョール派とか、非妥協
派とか呼ばれた。(マネ自身は印象派展には一度も参加せず、アトリエ内でし
か制作しない、さらには印象主義者でもないと公言していたけれど。)

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 マネはエコール・デ・ボザールに学んでアカデミックな技術を身に付け、当初
はイタリア・ベネチア派のティツィアーノやティントレット、オランダのレン
ブラント、スペインのゴヤ、フランス・ロマン派のドラクロワに憧れていた。

 しかし、クールベの自らの時代と経験を題材に描くべきだという精神、及び
日本の浮世絵版画の画面構成や思い切ったトリミング、立体感の欠如と平板な
色面に驚嘆し、西洋人で初めてこれを油絵に取り入れた画家であった。

 彼はアカデミックな肉付けや陰影に頼らず、色彩対比で形や奥行きのない空
間を表そうとしたのである。

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 批評家のフランソワーズ・カシャンは言う。

  「純粋な絵画的な空間の扱いにおいて、最も偉大な革新はマネによっても
 たらされる。西洋の絵画において伝統的な遠近法がこれほどきっぱりと無視
 されたことはかつてなかった。

  ・・・・・これは明らかに、マネが当時大いに賞賛していた浮世絵版画から
 借用した風景の扱い方である。

  ・・・・・以後絵画はイリュージョンによる現実空間の再現であることをやめ
 自らの刻印によって画家が特有のヴィジョンを表現する場となった。」

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 バティニョール派の若い画家たちはやがて印象派へと脱皮して行く。彼らは
物体は固有の色を持つという、アカデミックな理念を否定した。外光と大気が
色を生むと考えたのである。

 彼らの新機軸を思いつくまま列記してみると、

 1.偶然の光がもららす人体や事物の色の無限の変化を描く。
 2.肉付けや陰影、また遠近法に頼らない。
 3.風景を描くのではなく、風景によって生まれた感情・感動を描く。
 4.筆触(タッチ)は画家の息遣いであるからそのまま残し、それによってで
  きる斑点を併置する。
 5.風景画は屋外で完成し、アトリエに持ち込んで仕上げない。これは対象に
  対するダイレクトな反応を生み、かつ迅速な仕事をもたらした。
  (もちろん慎重な仕事でなければ実を結ばないことはいうまでもない。)
 6.題材は宗教や歴史や寓意等、教訓的なものではなく、普通の市民の日常生
  活とか楽しみ、郊外の風景など。

---------------------------------------------

 これらの項目をそっくり裏返すとアカデミックな伝統的絵画となるだろう。

 彼らは、決して理論家ではなく経験主義者であって、理論を構築した上で、
それに則って描いたわけではない。

 彼らは“それぞれの感動を表現するための技法を見つける”という問題意識
を共有しており、上の新機軸は、アカデミックな絵画に対する長い格闘の末に
経験によって得られたものであった。

 セザンヌと並んで後期印象派と呼ばれるゴッホはこう書いている。

  「私の眼前にあるものを正確に把握しようと努める代わりに、もっと強く
  自己を明らかにするために、私は思うがままに色彩を使った!」と。

---------------------------------------------

 さて、ルノワールの肖像画に戻ろう。

 画家として私が、この肖像画に深い感銘を覚えるのは、観る者をを釘付けに
して止まない真っ直ぐなまなざしと、正面性である。人形ではない生きた目。
こちらを片時もひるむことなく見つめる生きた視線である。

 これと対峙して、うっかり推し戻されてしまうと、現在コメディ・フランセ
ーズに収蔵されている「ジャンヌ・サマリーの肖像」の第1作目のような結果と
なってしまうのだ。

 次に対象の立体感を意識的に抑えた明暗法である。暗部に陰影を付けること
や肉付けによって立体を表すのだが、この明暗の幅を極限にまで抑えている。

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 明度が一番高い色彩は白である。明度が一番低い色彩は黒である。

 美術学校で学生は明暗のグラデーション(諧調)の修練を積むのであるが、
まず横方向に並んだ10個の升目を書く。左端の升目を白い絵の具で、右端を黒
い絵の具で塗りつぶす。

 それから残った8つの升目を白から黒までの、8通りの明るさの灰色で塗りつ
ぶし、きれいなグラデーションを作らなければならない。透明な水彩絵の具な
らば順番に塗り重ねていけば比較的容易に作ることができるが、

 不透明な油絵の具で短時間で作ると苦労するものである。(筆者だけかもし
れないが。)

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 ルノワールは肌の陰影の幅を、たとえていえば、グラデーション表の4番の
升目と6番の升目の明暗の中だけで変化させているのである。

 明暗の幅を抑えるというのはそういうことで、ルノワールの技術の確かさに
は驚嘆する。まさに職人芸である。

 これによって優雅さを獲得しているのである。このような人体表現は、磁器
の絵付けをしていた若き日、マリー・アントワネットを描いたりしながら身に
付けたものであろう。あるいは天性のものかもしれぬ。

 伝統的なアカデミック表現では人体の丸彫りのような立体感と、それがすっ
ぽり納まるような空間を描くことが常套であるが、ルノワールは、このような
淡いグラデーションによって浅浮き彫りのような効果を獲得している。

 それはまるで彼が若き日に憧れた彫刻家ジャン・グージョンによる「イノサ
ンの泉」の裸婦のレリーフを思わせる。

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 またルノワールは寒暖対比を巧みに用いている。暖色は前進し、寒色は後退
する。赤、黄、オレンジの暖色を明部に、青、緑、グレーの寒色を暗部に効果
的に用いることで、淡い立体感を醸し出すことができるのである。

 彼女の左の目頭を包む淡い青、あごの下や、それを支える左手、左腕の輪郭
やふくらみにも、膝に載せた右の二の腕の影になった部分にも、淡い青色や灰
色が使われている。

 古くはフランドルのルーベンスなども同じように灰色を使ってはいるけれど
も、ルノワールは実に自然に、自在に使いこなしている。

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 おそらくロマン派のドラクロアの絵画に学んだであろう、補色対比もよく効
いている。

 補色とは12色或いは24色の色の環(色相環)で、対極に位置する場所に置か
れる2つの色のことである。赤と緑、黄と紫、青とオレンジ、黄緑と赤紫など
の組み合わせである。

 例えば、赤色をしばらく眺めていて、ふいに白い壁や紙に目を移したときに
緑色が高い明度で現れる。この現象は目が赤い色に飽いて、これを緩和する色
を要求するために生じる生理現象らしい。

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 ジャンヌの唇とコサージュの赤、左腕の背後の濃いオレンジ色に対して、ド
レスの緑。それから背景のピンクに対して同じくドレスの緑。

 ベージュ色の肌に対して胸の下の青い影。

 胸の下の青い影、背景の青い線描(壁紙の模様か)、Renoir-77-という青地
の署名に対して腕輪や髪のハイライトの金色。

 補色は面積が等しいと強烈な印象や圧迫感を与えるが、2色の面積が著しく
異なるときは、楽しげな生き生きとした色彩交感が発揮される。

 この補色の一方に白を混ぜて彩度を落としたり明度を変えたりしていること
も心地よい。

---------------------------------------------

 印象的な赤い口元にはペンティメント(制作途中の変更の跡)が見える。フ
ェルメールの「青いターバンの少女」のように、当初は少し口を開いて微笑ん
でいただろうことを推測させる。

 こちら(画家の方)をみて笑う女であったとしたら、やや俗っぽい表現にな
ったかもしれないが、描き変えたことで見る者の視線は瞳が主となり、口元が
従となって、上品な表情に収めることができたといえるだろう。

---------------------------------------------

 モデルの肉付けや背景処理はあっさりとして、何よりも色彩効果に重点を置
いているルノワールの様式はマネに多くを負っている。となれば、とりもなお
さずルノワールが無関心を装う浮世絵の表現に傾いているといえるのである。

 これは印象主義の人物表現で最も有名で見事に成功した一枚であり、残念な
がら実在のジャンヌ・サマリーをはるかに超えて、“壁を愉しくさせる絵”、
理想化された肖像画であった。

 いやこれは正確ではあるまい、ルノワールはこう話していたっけ。

 「実に美しい娘だった!それに肌が素晴らしかった!彼女は自分の方から周
囲を照らしていたよ」と。


〈参考文献〉

「ルノワールの生涯」アンリ・ペリュショ著 千葉順訳(講談社)1981年

「ルノワールーその生涯と芸術」F・フォスカ著 幸田礼雅訳(美術公論社)
1986年

「もっと知りたい ルノワール 生涯と作品」島田紀夫著(東京美術)2009年

「巨匠の絵画技法 ルノワール」G・ジェニングズ著 倉田一夫訳
(エルテ出版)1989年

「現代世界美術全集 4 ルノワール」(集英社)1970年

「現代世界美術全集 第9巻 ルノワール」(講談社)1979年

「カンヴァス世界の名画 7 ルノワール」(中央公論社)1973年

「プーシキン美術館展 フランス絵画300年」(朝日新聞社)2013年

「人物画論」フランカステル著 天羽均訳(白水社)1987年

「日本百科大事典」(小学館)

「世界大百科事典」(平凡社)

「ブリタニカ国際大百科事典」

"The New Encyclopedia Britanica"

"LES Gourmandises de Charlotte" JEANNE SAMARY(LIBRARIE HACHETTE ET 
Cie, PARIS)1890

"DICTIONNAIRE DES Comediens Francais" HENRY LYONNET(BIBLIOTHEQUE de 
Revue Universelle Internationale Illustree, GENEVE)1912

"Dictionary of Artists' Models" Jill Berk Jiminez(Routledge)2001

"Dictionary of Artists [BENEZIT]" (Editions Grund Paris)2006

"Dictionary of Art [GROVE]" (Macmillan Pablishers Limited)1996


◆【6】次号予告━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 次号では近代絵画の父といわれるセザンヌの肖像画を取り上げます。彼はル
ノワールより4才年長で、お互いを認め合う印象派の同志でもありました。

 セザンヌが構築した絵画世界は、後続の画家たちの範となるものであったた
めに多くの崇拝者を生み、20世紀芸術に大きな影響を与えた巨人でした。

 肖像画についていえば、ルノワールの作品は伝統によって確立された様式を
一変させるものでしたが、セザンヌのそれは、肖像画の概念から完全に逸脱す
るものでした。

 彼は初期において唯一のコレクターであった税官吏ヴィクトール・ショッケ
を少なくとも4枚の肖像画に描いています。それらはいずれもおどろくべきも
のでした。

 ルノワールもヴィクトール・ショッケの肖像画を数点描いていますので、比
べてみたいとも考えています。

 次回、セザンヌ作「ヴィクトール・ショッケの肖像」をご期待ください。


◆【7】編集後記━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 像主についての項を書くにあたり"DICTIONNAIRE DES Comediens Francais"
(コメディー・フランセーズ事典)に記載されているジャンヌ・サマリーの演
目と役柄のリストを逐一翻訳しました。

 同時に、これが誰の原作であるのか、また既に日本語に置き換えられたタイ
トルは存在するのかどうか、ということを調べる苦しい作業を続けるうちに、

だんだんと興味が湧いてきて、ジャンヌが実際に演じた役柄がどんなものか見
たくなったのです。

---------------------------------------------

 作家アンリ・リヨネは、ジャンヌ・サマリーが「モリエールの舞台に登場す
る女中に最適だった」といっていますが、それはどんな演技だったのだろうか
知る由もありません。

 彼女は映画というメディアが誕生するほんの少し前、1890年に亡くなってい
ますから。

 けれどもコメディー・フランセーズは存続していて、モリエールの舞台は今
も変わらず演じられているはずですから、ジャンヌの演技を彷彿とさせる映像
は見られないだろうかと動画をネット検索してみましたところ、ありました。

 モリエール作『タルチェフ』の女中ドリーヌ役
 モリエール作『町人貴族』の女中ニコル役

いずれも映画や舞台の映像を確認することができました。

---------------------------------------------

 “You Tube”の検索窓に

 タルチェフか、Tartuffe
 町人貴族か、Le Bourgeois Gentilhomme
 もしくは作家名モリエールか、Moliere

とコピー&ペーストして、じっくりと検索してみて下さい。

 またストーリーを見るならば、日本語題名をグーグル検索するとあらすじを
書いたサイトが見つかります。

 フランス語が聞き取れなくても(私もですけど)、衣装・背景・バロック音
楽と一緒にフランス人が好んだ舞台の雰囲気が十分楽しめると思います。


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