西行辞典

西行辞典 第302号(140801)


カテゴリー: 2014年08月01日
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      ◆◆◆◆  西行辞典  ◆◆◆◆
                        
                  vol・302(不定期発行)
                  2014年08月01日号

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            今号のことば    

        1 藤原成範(ふじわらしげのり)・
         藤原脩範(ふじわらながのり)

        2 藤原隆信(ふじわらたかのぶ)

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       ◆ 藤原成範(ふじわらしげのり)・ ◆
              ◆  藤原脩範(ふじわらながのり) ◆

【藤原成範】=「しげのり・北小路壬生卿」
【藤原脩範】=「ながのり・少将ながのり」

「しげのり」「ながのり」は父を藤原通憲(信西)、母を院の二位の局
とする兄弟です。院の二位の局は「紀伊の二位」とも呼ばれています。
「しげのり」は1135年出生。「ながのり」は1143年出生。「しげのり」
が8歳年長です。
なお、「しげのり」は「なりのり」とも呼び、「脩範」は「修範」
とも表記します。

母の朝子が後白河院の乳母になり、乳母の夫であり当時は藤原頼長と
碩学の名を欲しいままにしていた通憲は絶大な権力を握ります。
政治の中枢で主に後白河天皇の権力基盤の確立に取り組みます。
この過程で清盛とも密着し、摂関家の勢力も削ぐことになり、それが
保元の乱から平治の乱にとつながって行きます。清盛は保元の乱後に
わずか8歳の長女を成憲の室に入れています。平家物語巻一の「我身
栄華」によれば、平治の乱で破談となったそうですから、異説はあり
ますが夫婦としての実体はなかったものでしょう。

通憲の子息はたくさんいます。学識優れている子息が多かったよう
です。成範、脩範も父の通憲の意向で官位を上げて行きます。
平治の乱で通憲は宇治田原で死亡。通憲の子息たちも乱に連座して
ことごとく配流されます。1159年12月のこと。しかしながら翌年の
2月にはもう許されて都に呼び戻されて復位しています。これには
母の朝子の影響力も強かったものと思います。
結局、成範は正二位中納言、脩範は正三位参議で終えていますが、
政治的には目立った事跡はありません。
成範は桜をことに愛したらしく、姉小路室町にった自邸に桜の樹を
植栽していたそうです。号を「桜町中納言」と言います。
以下に関連年表を記します。

1106年 藤原通憲出生。
1124年 通憲、待賢門院蔵人となる。藤原朝子は待賢門院の女房に
    なっていて知り合ったか?。二人は同年齢と推定できる。
    のちに朝子は通憲の後妻となる。
1127年 藤原朝子、雅仁親王(後白河院)の乳母となる。
1133年 通憲、鳥羽天皇の上北面となる。
1135年 成憲出生。
1141年 崇徳天皇譲位。近衛天皇即位。
1143年 脩憲出生。
1144年 通憲、正五位下、少納言となる。通憲出家。法名は信西。
1155年 近衛天皇崩御。後白河天皇即位。
1156年 鳥羽上皇崩御。保元の乱勃発。崇徳院、讃岐に配流。藤原
    信西と対立していた藤原頼長敗死。
    鳥羽院の葬儀、乱後の処理を信西が主導する。
1157年 後白河天皇の信任を得て、出家の身でありながら信西が
    専制的な政治を執り行い、辣腕を振るう。子の俊憲・成憲・
    脩範などの官位を上げ要職に就かせる。成範の娘の小督生れる。
1158年 後白河天皇譲位。二条天皇即位。
1159年 12月平治の乱勃発。藤原通憲(信西)自刃。藤原信頼斬殺。
    成憲は下野の国、脩範は隠岐の国に配流。
1160年 2月成憲、脩憲、許されて政界に復帰。成範、脩範と改名。
1166年 院の二位の局没する。この年、西行49歳。成範32歳。脩範24歳。
1167年 清盛、2月に太政大臣となり、5月に辞する。
1168年 高倉天皇八歳で即位。後年に西行は高倉院に奏上している。
1177年 成範の娘の小督、高倉天皇の寵愛を受けて範子内親王を産む。
1178年 範子内親王は賀茂斎院となる。
1179年 清盛、後白河院を鳥羽南殿に幽閉する。成範、脩範は接触を
    許される。
1181年 清盛没する。    
1187年 成範没する。脩範は1191年存命も没年不詳。

二人は勅撰集歌人で、千載集にはともに三首撰入しています。

   母の二位身まかりてのちよみ侍りける

 鳥辺山思ひやるこそかなしけれひとりや苔の下に朽ちなん
               (民部卿成範 千載集591番)

 野べ見ればむかしの跡やたれならんその世も知らぬ苔の下かな
              (左京太夫脩範 千載集595番)

○船岡山と鳥辺山

岩波文庫山家集208P、新潮版山家集820番に下の歌があります。
院の二位が死亡した時に、人々と共に西行の詠んだ哀傷歌10首の
内の1首です。

 船岡の裾野の塚の数そへて昔の人に君をなしつる
      (西行歌)(岩波文庫山家集208P哀傷歌・新潮820番・
         山家心中集・西行上人集・玉葉集・夫木抄)

鳥辺山は東山区、船岡山は北区にあります。ともに当時の葬送地
ですが、距離が離れています。ちなみに右京区の仇野を含めて
当時の京都の三大葬送地でした。
上の西行の「船岡」の歌では、院の二位の局は船岡山で荼毘に
付されたものと解釈できます。
ところが千載集591番の成範歌では、葬送地は鳥辺山とも解釈
できます。なぜこのような異同が起きたのか理解に苦しみます。
西行か成範が勘違いによるミスをしたというよりも、現在にまで
伝わってくる過程での書写した人のミスであるのかもしれません。
しかしそうとも断定できにくい不可解さを覚えます。

○きたこうぢみぶ卿

北小路民部卿のこととも北小路壬生卿のこととも言われていて
氏名の特定不可。北小路壬生卿として藤原家隆(伊藤嘉夫氏説)
とみる説もありますが確定は出来ないようです。北小路民部卿
として藤原成範説(和歌文学大系21)もありますが、こちらも
確定は不可のようです。あるいは家隆、成範のうちのどちらかかも
知れません。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

      跡のことども果てて、ちりぢりに成にけるに、
      しげのり、ながのりなど涙ながして、今日にさへ
      又と申しける程に、南面の櫻に鶯の鳴きけるを
      聞きてよみける

01 櫻花ちりぢりになるこのもとに名残を惜しむ鶯のこゑ
      (西行歌)(岩波文庫山家集209P哀傷歌・新潮827番)

02 ちる花は又こん春も咲きぬべし別はいつかめぐりあふべき
  (少将ながのり歌)(岩波文庫山家集209P哀傷歌・新潮828番)

      行きちりて又の朝つかはしける

03 けさはいかに思ひの色のまさるらむ昨日にさへも又別れつつ
      (西行歌)(岩波文庫山家集209P哀傷歌・新潮831番)
                     
04 君にさへ立ち別れつつ今日よりぞ慰むかたはげになかりける
  (少将ながのり歌)(岩波文庫山家集210P哀傷歌・新潮832番)
             
○跡のことども果てて

49日の忌が明けたということ。「中有」や「中陰」とも言います。
死亡してから忌明けまでにしなくてはならない法要などが全て
終わったということ。

○南面の櫻

二位の局邸にある桜と言うことでしょう。二位の局の死亡が1月です
から、忌明けは3月頃になります。旧暦では桜の盛りだと思われます。

○このもとに

木の下のこと。

○げになかりける

本当に・全然・実に、などの意味を持つ言葉です。
(げになかりける)で、本当にありません、という意味になります。

(01番歌の解釈)

「花が散るように人も散り散りになる今日、桜の木の下には
鴬までが名残を惜しんで鳴いていますよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

「花は散ってもまた春が来れば咲くであろう。亡き人との別れは
いつまた巡りあえるのか。もう逢えないのですね。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

「今朝はどんなに歎きの思いの色がまさっておいでのこと
でしょう。中陰が果て人々が別れ別れに散って行った昨日に
さえも、またお別れになって。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(04番歌の解釈)

「亡き人の特に親しかったあなたにさえお別れして、中陰の果てた
今日からは、心を慰めるすべはまことにないことですよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【藤原朝子(院の二位の局・待賢門院紀伊)のこと】

西行と脩範との贈答歌は院の二位の局が1166年に死亡した折のもの
です。この贈答の歌の前に船岡山に葬られた院の二位を悼んで詠んだ
西行の10首連作があります。
院の二位の局は紀伊守藤原兼永の娘の朝子のこと。父親の官職名で
「紀伊」と呼ばれます。
待賢門院の女房にもなり待賢門院紀伊とも呼ばれました。同じく
待賢門院に仕えていた藤原通憲(入道信西)の後妻です。
藤原成範、脩範などの母。
後白河院の乳母としても活躍しました。
後白河院の乳母になったのも後白河院が待賢門院の子であるから
でしょう。西行と親しかったのも待賢門院の女房であったからです。

近衛天皇が1155年に崩御して、次に後白河天皇が即位しています。
この新天皇即位の時に後白河院の乳母であった二位の局は裏で暗躍
したとみられています。
次の年、1156年に鳥羽帝が崩御すると保元の乱が起きました。
結果、白川北殿に拠っていた崇徳上皇は敗れて仁和寺に入り、次に
讃岐に配流となりました。乱後の一連の処理が二位の局の夫である
信西入道の主導によって進められました。
後白河天皇の信任を得て、平清盛とも結びついた信西は実権を掌握し
専制的な政治を行ったと言えます。
1159年に起こった平治の乱は保元の乱の戦後処理に端を発しているの
ですが、反信西の勢力が強くなって、その葛藤が平治の乱にとつな
がっていきます。
藤原信頼や源義朝らの勢力の起こした反清盛、反信西という性格の
強い平治の乱は1159年12月に起きました。結果だけ言えば、信西は
宇治田原の山奥で自害、藤原信頼は六條河原で斬首、義朝は尾張内海
で襲われて自害、ひとり清盛だけが、権力を手中にすることになり、
以後は平氏の天下となります。
この激動の時代を、二位の局は生き抜いたことになります。
崇徳天皇と親しかった西行とは立場が違いますが、それでも立場の
違いを超えて、二人は親しい関係を保っていたものでしょう。
そうでないと二位の局に対しての十首歌など、西行は詠まなかった
だろうと思います。

○高倉院の御時

成範や脩範には関係ないのですが、西行が高倉院に奏上したことに
ついて少し触れておきます。

高倉院が院政を執っていた期間は1180年2月21日から同年12月28日
までの10か月ほどです。この期間に西行は何かしらのことを文章に
して高倉院に上奏したということになります。
たまたま西行も1180年の正月過ぎには京都にいたものと思われます。
(京都にいた西行が高野山に宛てた「円位書状」は年次の記載はない
ものの1180年3月15日の署名と考えられます。)
わずか10か月ほどでは期間的に短いですから、この詞書は高倉院が
天皇在位中の期間も含めている可能性もあります。

○伝奏せさする事

具体的なことは一切分かりません。政治的なこととか個人的なこと
などは論外ですから、二首の歌の内容も考え合わせるならば、和歌
についての事だと思われます。
勅撰集が1151年の詞花和歌集第一次本完成以来絶えていましたので、
勅撰集撰進について上奏したものとみられています。

この後、後白河院による千載和歌集撰進の下命があったのは1183年、
撰者は藤原俊成、奏覧は1188年の事でした。

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       ◆ 藤原隆信(ふじわらたかのぶ) ◆

【藤原隆信】=「隆信」

常磐三寂の一人である藤原為経(寂超)を父、待賢門院の女房である
「加賀の局」を母として1142年出生。1205年没。64歳。
加賀は美福門院にも仕えて、美福門院加賀とも言います。
父の寂超は1143年の出家ですから嬰児の隆信を加賀の局に任せて
出家したことになります。以後、加賀の局は藤原俊成と結婚して、
1162年に藤原定家を産んでいます。従って隆信は定家の20歳年上の
同腹の兄に当たります。

隆信は歌人としても著名で、新古今和歌集編纂の折には「和歌所
寄人」にもなっており、旺盛な作歌活動を続けています。
藤原良経主催の「六百番歌合」にも参加し、1185年の西行勧進の
「二見浦百首」にも名を連ねています。

隆信は能書家及び画家としても有名です。隆信を祖とする→信実→
專阿弥の家系は「似せ絵」の家系として知られています。
右京区神護寺には「藤原隆信筆」とする「源頼朝像」「平重盛像」が
ありますが、隆信筆というには確証がえられないようです。
建礼門院右京大夫集などを見ると、隆信は艶福家としても有名だった
ようです。
隆信に関係ある人として美福門院がいます。美福門院加賀が仕えて
いた時に、幼児の隆信は美福門院に可愛がられたものと思います。

○美福門院

1117年から1160年在世。11月23日没。44歳。藤原長実の娘、
得子のこと。
鳥羽天皇の女御。八条院暲子内親王や近衛天皇の母。二条天皇の
准母。1141年12月皇后、1149年8月院号宣下。
美福門院の遺言により、1160年12月4日(2日とも)に遺骨は高野
山の菩提心院(蓮台院とも。窪田章一郎氏「西行の研究」)に
納められました。この遺骨の移送に、藤原成道と藤原隆信が供奉
したとのことです。西行は高野山で、美福門院の遺骨を迎えたこと
になります。この日、高野山は大雪に見舞われていたそうです。
鳥羽の安楽寿院の近衛天皇陵は、もともとは美福門院陵として
造営がなされました。1155年に崩御した近衛天皇は船岡山の東に
あった知足院に葬られていましたが、1163年に現在地に改葬され
ました。美福門院に関する詞書と歌を付しておきます。

    美福門院の御骨、高野の菩提心院へわたされけるを
    見たてまつりて

  今日や君おほふ五つの雲はれて心の月をみがき出づらむ
    (岩波文庫山家集201P哀傷歌・新潮欠番・西行上人集)

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01   賀茂のかたに、ささきと申す里に冬深く侍りけるに、人々
    まうで来て、山里の恋といふことを

  かけひにも君がつららや結ぶらむ心細くもたえぬなるかな
         (岩波文庫山家集146P恋歌・新潮609番)

    賀茂の方にささきと申す里に、冬ふかく侍りけるに、
    隆信など詣できて、山家恋といふことを詠みけるに

  筧にも 君がつららや 結ぶらん 心細くも 絶えぬなるかな
            (新潮日本古典集成山家集609番)

○ささきと申す里

「ささき」という里名についてはわかりません。賀茂社の付近の
里名を調べたのですが、どうしてもみつかりません。
賀茂社が領有してきた里名としてもなく、現在の町名としても
ありません。
「山州名勝志」には上賀茂の北にあったとのことですが、私は
未確認です。
西行が出家した候補地の一つである「西念寺」も、この付近に
あったものでしょう。都名所図会によると「西念寺」は上賀茂の
堤の南にあり、西行の姉も住んでいたようです。

この詞書については、「人々まうで来て・・・」が新潮版の山家集
では「隆信など詣できて・・・」と変わっています。
「侍りけるに」とありますので、賀茂の近くにも庵があったのかも
しれません。
ただし、隆信との年齢差を考えると、西行は50歳過ぎの高齢になって
からです。西行50歳という年は、まだ高野山にこもっていた年代です。
下に窪田章一郎氏の「西行の研究」から抜粋します。

「山家恋の題詠は女性の立場のもので、山家の筧の垂氷ともなって、
君のつらい心は、固く凍っていることであろう。心細くも絶えて
しまったことかな、という歌意である。生まれたばかりの隆信を
残して出家した寂超を加賀の立場で詠んだと想像しても適切であり、
西行の場合を考えても、このような女性の立場はあったろう。
世捨人の山家の生活に入ったばかりの頃を作者はおもっているの
である。」
  (平凡社刊「京都市の地名」・窪田章一郎氏著「西行の研究」
      賀茂御祖神社社務所刊「賀茂御祖神社」を参考)

(01番歌の解釈)

「筧にも、恋しいあの人の心のようにつめたい氷が結んだので
あろうか、細々と流れていた水も心細いことに絶えてしまった。
あの人との仲が絶えてしまったように。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

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  (後記)

暑中のお見舞申し上げます。

闘病第一にということは単なる言い訳で、ちょっとズルをして
しまいました。パソコンの不具合で10日間ほど棒に振ったことも
あるのですが、今号を7月に出せませんでした。反省しています。
8月は303号を出してから9月は再度の入院のため休刊の予定。
10月になればなんとか304号を出したいものと念願しています。
それにしても一か月に一度の発行に呻吟するなどということは、
一年前には思いもしないことで隔世の感を覚えたりします。

さて、京都は空梅雨もあけ、一か月にわたる祇園祭も終わってしまい
ました。旧暦は7月から秋なのですし、明日が7月7日の七夕とあれば、
暑さ厳しい中にも秋の気配が押し寄せてきます。今月7日は立秋。
いずれにしても季節は確実に移ろい行きます。
もう少しですが肌にも気持にも快い気候を切望しています。

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