西行辞典

西行辞典 第301号(140629)


カテゴリー: 2014年06月29日
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      ◆◆◆◆  西行辞典  ◆◆◆◆
                        
                  vol・301(不定期発行)
                   2014年06月29日号

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           今号のことば    

        1 藤原実能(ふじわらさねよし)

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       ◆ 藤原実能(ふじわらさねよし) ◆

【藤原実能】=「右大臣さねよし、大納言と申しける・
        徳大寺の左大臣・なき人・父・家の風」

藤原実能(1096~1157)は摂関家の「藤原師輔」を父とする「藤原公季」
の五代の孫に当たります。藤原公季(きんすえ、956~1029)は藤原北家
の流れをくむ「閑院家・閑院流」と呼ばれる一流の祖です。
「閑院家・閑院流」とは、京都市中京区押小路通りにあった藤原
冬嗣の邸宅を公季が伝領したことによって始まります。後世における
「閑院宮家」とは関係はありません。

実能の父は公実(きんざね、1053~1107)。実能の兄弟には三条家の
祖となった実行(さねゆき、1080~1162)、西園寺家の祖となった通季
(みちすえ、1090~1128)などがいます。
また、実能の叔母の藤原苡子(ふじわらいし、1076~1103)は鳥羽天皇
の生母であり、母の光子は堀川天皇と鳥羽天皇の乳母。妹の璋子は
鳥羽天皇の中宮となり、崇徳天皇や後白河天皇の生母です。
嫡男の公能の娘で藤原頼長の養女になっていた「多子」は第76代
近衛天皇と第78代二条天皇の二代の皇后にもなりました。それほどに
天皇家とは緊密な関係を築いていて、実能も外戚として1136年には
正二位権大納言に昇進しています。
ところが甥の崇徳天皇は1141年に譲位。待賢門院璋子は1142年落飾、
1145年死亡しました。このこともあり実能の昇進は停滞しています。
権大納言昇進から15年程を経てから1150年内大臣。1156年左大臣。
1157年従一位。1156年には鳥羽院逝去。保元の乱が勃発しました。
実能は美福門院得子の養子となっていた後の二条天皇(守仁親王)の
傅役である東宮傅(とうぐうのふ)ともなっています。二条天皇が
皇太子であったのは1155年から1158年までです。この間の内に実能は
崇徳院の子である重仁親王ではなく後白河院の子である守仁親王の
側についていたことになります。
それはそのまま当時の複雑な政治状況を反映しての、身過ぎ世過ぎの
思惑が実能にはあったのではなかろうかと思います。
実能からの徳大寺家は現在にまで存続しています。
徳大寺家及び実能と西行の関係は後述します。

○右大臣さねよし

正しくは左大臣です。左大臣は右大臣の上席であり、名誉職でも
ある太政大臣がいない場合は最高位の官職です。
実能は鳥羽院の逝去した1156年に左大臣となっています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01    一院かくれさせおはしまして、やがて御所へ渡しまゐらせ
     ける夜、高野より出であひて参りたりける、いと悲しかり
     けり。此後おはしますべき所御覽じはじめけるそのかみの
     御ともに、右大臣さねよし、大納言と申しけるさぶらはれ
     ける、しのばせおはしますことにて、又人さぶらはざりけり。
     其をりの御ともにさぶらひけることの思ひ出でられて、折しも
     こよひに参りあひたる、昔今のこと思ひつづけられてよみける

  今宵こそ思ひしらるれ浅からぬ君に契のある身なりけり
          (岩波文庫山家集202P哀傷歌・新潮782番・
                   新拾遺集・西行物語) 

○一院

第74代天皇の鳥羽院のことです。鳥羽院の父は第73代の堀川天皇。
中宮、藤原璋子(待賢門院)との間に崇徳天皇、後白河天皇、上西
門院などがあり、藤原得子との間には近衛天皇があります。
1156年7月崩御。同月に保元の乱が勃発して、敗れた崇徳上皇は
讃岐に配流となりました。

山家集の中の、一院は鳥羽院、新院は崇徳院、院は後白河院を
指します。たとえば「院の小侍従」といえば、後白河院に仕えて
いた女房の「小侍従」のことです。

○かくれさせ
 
死亡したということ。鳥羽上皇崩御は保元元年(1156年)7月2日。
鳥羽上皇54歳。この年、西行は39歳です。

○御所

この場合の御所は鳥羽天皇の墓所を言い、鳥羽離宮内の安楽寿院の
ことです。
「此後おはしますべき所」という記述によって、安楽寿院三重の
塔のこととみなされます。三重の塔は藤原家成の造進により、
落慶供養は1139年でした。
家成は山家集に一度登場します。

   中納言家成、渚の院したてて、ほどなくこぼたれぬと聞きて、
   天王寺より下向しけるついでに、西住、浄蓮など申す上人
   どもして見けるに、いとあはれにて、各述懷しけるに

 折につけて人の心のかはりつつ世にあるかひもなぎさなりけり
     (岩波文庫山家集187P雑歌・新潮欠番・西行上人集)

○高野より出で

この頃は西行の生活の拠点は高野山にありました。しかし高野山に
閉じこもりきりの生活ではなくて、しばしば京都にも戻っていた
ことが山家集からもわかります。1156年のこの時にも、京都に滞在
しており、たまたま鳥羽院葬送の場に遭遇し、僧侶として読経して
います。出家前に鳥羽院の北面の武士であった西行にとって、特別の
感慨があったものと思います。
安楽寿院は1137年に落慶供養が営まれていますが、まだ完成前に
徳大寺実能と西行は鳥羽上皇のお供をして、お忍びで見に行って
います。17年から19年ほど前の、そういう出来事も思い出して、
ひとしお感慨深いものを感じたのでしょう。出家してからさえも、
鳥羽院に対する西行の気持ちが変わらなかったことが分かります。

○其をりの御とも

安楽寿院の造営はいつごろからされたのか不明ですが、1137年には
創建されています。ついで三重の塔の落慶供養は1139年。1145年
及び1147年にも新しく御所や堂塔が建てられていて、付属する子院
も含めるとたくさんの建物が造られました。
「其をりの御とも」とは三重の塔の落慶供養のあった1139年2月22日
以前のことだろうと解釈できます。
完成前の三重の塔を鳥羽院がお忍びで見物に出かけることになった
ので、藤原(徳大寺)実能と、実能の随身で鳥羽院の下北面の武士
でもあった西行がお供をしたということです。この時の西行は22歳。
翌年の10月15日に出家しています。
尚、現在の安楽寿院は、当時の安楽寿院の子院の一つの(前松院)
が1600年前後の慶長年間に「安楽寿院」として再興されたものです。

○さぶらはれける・さぶらひける

「候ふ・侍ふ」という文字を用いて、(目上の人、地位の高い人
の側に控える、近侍する、参上する、伺う)ということを表す
言葉です。
(さぶらはれける)は藤原実能が鳥羽院に随行していることを西行
の立場で言い、(さぶらひける)は西行自身が随行していることを
自身の立場で言った言葉です。自他を区別するために言葉を変えて
使われています。
この言葉は鎌倉時代になってから(いる・ある)という意味をこめて
使われるようになりました。(さぶらふ)から(そうろう)に発音も
変化します。手紙文の言葉としても盛んに用いられましたが、現代
では(候=そうろう)と使うことはほぼありません。

○大納言と申しける

藤原実能が大納言であった期間は保延二年(1136)から久安六年
(1150)の期間でした。

○君に契の

鳥羽天皇に対しての西行から見た運命的な関係を言います。

(01番歌の解釈)

「御葬送の今夜こそは実感されました。生前にも安楽寿院の検分
に供奉いたしましたが、実際にそこにお入りになるその日に上京
いたしましたのは、前世からの深い因縁を院との間にいただいて
いたのです。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

「たまたまご葬送にめぐりあえた今宵こそ、本当に思い知られた
ことである。亡き一院には前世からの浅からぬご縁のあるわが身
であった。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

02  徳大寺の左大臣の堂に立ち入りて見侍りけるに、あらぬ
   ことになりて、あはれなり。三條太政大臣歌よみてもてなし
   たまひしこと、ただ今とおぼえて、忍ばるる心地し侍り。
   堂の跡あらためられたりける、さることのありと見えて、
   あはれなりければ

 なき人のかたみにたてし寺に入りて跡ありけりと見て帰りぬる
     (岩波文庫山家集186P雑歌・新潮欠番・西行上人集)
          
○徳大寺の左大臣の堂

建物としての徳大寺のこと。保元元年5月(1156)に放火により炎上
しています。
徳大寺の左大臣とは藤原公実の四男で藤原実能のこと。西行は
実能の随身でした。

○あらぬことになりて

焼失してしまったことを指します。

○三条太政大臣

藤原公実の次男で、実能の兄の実行のこと。1080年~1162年在世。
従一位・太政大臣など歴任。三条家の始祖です。

上の詞書は徳大寺実能の別荘である徳大寺を訪れた時のものです。
ただし、徳大寺焼失後ほどない時期のものでしょう。1157年9月に
藤原実能は死亡していますので1157年の秋以後のことだと思います。
焼け跡がまだ完全には整備されていない頃のことだと考えられます。
この徳大寺で歌会などもあって、藤原実行が歌を詠ったことが
分かります。
この歌会は何年のことか分かりません。西行が実能の随身だった
1140年までのことか、それとも出家してからのものか不明です。
実能の建てた徳大寺での歌会とするなら1147年以降のことです。
ともあれ、西行はこの実能の家系に連なる人々とは親しいという
ほどではなくても、実能死亡以後にも交流がありました。

○堂の跡あらためられたり

消失後に再建のための準備をしていること。

○なき人のかたみにたてし寺

(なき人)とは、藤原実能のこと。
ネットの「ウィキペディア」情報によると、実能はこの徳大寺で
死亡したとのことですから、それが事実なら焼亡した徳大寺は実能
在世中にある程度は再建されていたものでしょう。

(詞書と歌の解釈)

「一首にしみじみとした気分が歌い据えられている。亡き実能が、
その人を偲ばせるものとして建てた寺に西行はいま訪れて来て
いるのであるが、かつての面影は全くない。しかし焼跡の整理が
され、修築もされる様子をみて、「跡ありけると見て帰りぬる」
という言葉になっているのではなかろうか。「跡ありけり」は、
邸宅と、実能の跡を継ぐ公能とを絡ませた感慨だととれるので
ある。(後略)」
        (窪田章一郎氏著「西行の研究」より抜粋)

「今はなき実能公が形見としてお建てになられて寺に入って、
まだその跡が残っていると見て帰ってきたよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(徳大寺左大臣の堂)

藤原実能は衣笠山の西南麓に山荘を営みました。この山荘の中に
得大寺(徳大寺とも表記します)を建てました。1147年に堂の
供養がされたので、その年に落成したものと考えられます。
これが徳大寺左大臣の堂です。それで実能は徳大寺の祖と言われます。

しかしそれより先に実能より数代前の藤原実成(975~1044)が同所に
寺院を営み、これを得大寺、あるいは徳大寺といい、その辺りが地名
として徳大寺と言われていました。
 
実能の建てた徳大寺は1156年の保元の乱のはじまる直前に賊徒に
より放火され、灰燼に帰しました。百錬抄では「勇士乱入」として、
放火犯を褒め称える言葉を使っていますが、これは政治的な意図が
あるのでしょう。もしくは「勇士」という言葉の解釈が現在とは
違うのかも知れません。
あるいは実能が崇徳天皇の子である重仁親王ではなくて、二条天皇と
なる守仁親王の東宮傅になったことに対しての重仁親王側勢力の反発
による犯行とも考えられます。そうであれば「勇士」の文言も意味が
深まります。
 
実能は1157年に死亡しています。実能の跡を継いだ公能も1161年に
死亡しましたので、焼けてしまった徳大寺の再建は進んでいなかった
ものでしょう。
ここに新たに寺を建てたのは公能の嫡男の実定(1139~1191)です。
実定は後徳大寺の左大臣と呼ばれ、百人一首にも撰入して81番です。
 
この徳大寺は1458年(1450年とも)に藤原公有が細川勝元に譲り
渡して、竜安寺となり、今日に至ります。
竜安寺の枯山水式の石庭は白砂と15個の石でできていて、特別名勝
に指定されています。古来、虎の子渡しと呼ばれてきました。
一説には北斗七星をかたどったものとも言われます。
また、境内南部にある鏡容池は美しい池です。徳大寺の頃からの
ものと言われますので、西行もこの池畔にたたずんだことは確実
だろうと思います。
           (平凡社「京都市の地名」などを参考)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

      右大将きんよし、父の服のうちに、母なくなりぬと
      聞きて、高野よりとぶらひ申しける

03 かさねきる藤の衣をたよりにて心の色を染めよとぞ思ふ
     (西行歌)(岩波文庫山家集203P哀傷歌・新潮785番・
        西行上人集・山家心中集・玉葉集・月詣集)

04 藤衣かさぬる色はふかけれどあさき心のしまぬばかりぞ
 (藤原公能の返歌)(岩波文庫山家集203P哀傷歌・新潮786番・
                  山家心中集・月詣集)

○右大将きんよし

藤原実能の嫡男の藤原公能のこと。「徳大寺公能」とも言います。
1115年生。1161年、47歳で没。
最終官位は正二位右大臣。西行より三歳年長です。
第76代近衛天皇と第78代二条天皇の二代の皇后となった藤原多子の父。
その他に、後徳大寺実定や公衡(養子)などの父です。
藤原俊成の妹と結婚したため、俊成は公能の義兄にあたります。
「久安百首」歌人の一人。「学才あり、管弦に秀で…」と、寂超の
作と定説のある「今鏡」に記されています。

公能の右大将(右近衛大将)任官は1156年のこと。以後、公能は
権大納言、右大臣なども歴任していますが、終生、右大将を兼任
していたようです。

○父の服のうち

徳大寺実能の服喪期間が明けていないうちのこと。この場合は
50日の忌明けではなくて、13か月の喪明けを指しているとも解釈
できます。母の没年月は不明です。窪田章一郎氏は「西行の研究」
の中で(実能が62歳で没し、その年の内にその室もつづいて没した)
と記述されています。
同時期に父母の喪に服することなので、50日のうちという解釈が
良いのかもしれません。

○かさねきる

父母の喪が重なったことを言います。公能の父母はほぼ同時期に
死亡しました。

○藤の衣・藤衣

1 藤や葛の繊維で織った粗末な衣服。貧しい人達の衣類。
2 喪服のこと。

平安時代の歌の「藤衣」の用例は、ほぼ喪服のことです。
色は死者との血族関係により多少の変化があったらしく、墨色の
濃淡で分けられていたようです。
現在のように喪服は黒色が一般的になったのは明治から昭和に
かけてのことだと言われます。

○かさぬる色

藤原公能の父である藤原実能は1157年9月没。その喪が明けない
うちに母親も死亡しましたので、喪服を重ね着ると表現しています。
その公能も4年後の1161年8月、47歳で没しています。
この贈答歌は1157年から1158年にかけて詠まれたものです。

○ふかけれど

両親を同時期に亡くして、悲しみがとても強いことを言います。

○あさき心

西行が「心の色を染めよ」と、出家を勧めていることに対して、
出家に対しての情熱は、いまだに乏しいという公能の心情吐露。

○しまぬ

「染む」の活用形です。「しまぬ」で色が染みこまないことを
指しています。

(03番歌の解釈)

「ご両親を相次いで失われた御不幸をお見舞申し上げます。喪服を
重ねてお召しなのを機縁にそのまま僧衣をお召しになりませんか。
仏縁に従って出家なさるのがよろしいかと存じます。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(04番歌の解釈)

「重なる両親の死による悲しみが服喪の色を深くいたしましたが、
私の心はまだ浅くて、仏道に専念する決心はつきません。」
                (和歌文学大系21から抜粋) 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以下の公能と西行の贈答歌には「実能」名はありません。しかし、
「家の風」という文言によって、まず一番に実能を暗示させます
から、参考として詞書と歌を付しておきます。

     新院百首の歌召しけるに、奉るとて、右大将きんよしの
     もとより見せに遣したりける

  家の風吹きつたへけるかひありてちることの葉のめづらしきかな
 (西行歌)(岩波文庫山家集179P雑歌・新潮933番・西行上人集)
 
  家の風吹きつたふとも和歌の浦にかひあることの葉にてこそしれ
    (藤原公能歌)(岩波文庫山家集179P雑歌・新潮934番)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『随身・成功・兵衛尉・北面の武士』

「随身」とは皇族や貴族に付き従い、身辺警護や雑用をする人を
言います。
西行は1133年、16歳頃に徳大寺実能の随身になったものと考えられ
ます。正確には何年のことなのか、また、なぜ徳大寺実能の随身に
なったのか、その確実な理由は不明とも言えます。

田仲荘は摂関家の所領(本所)であり、田仲荘の「預所」としての
佐藤氏との関係は藤原師輔以前にまで遡ることは確実です。
長く続いている佐藤家と摂関家の田仲荘を介した関係によって、
西行は摂関家の流れにある実能の随身になったものとも考えられます。

しかし目崎徳衛氏は「西行の思想史的研究」の中で、田仲荘を介し
ての佐藤家との関係を認めつつ「新興の閑院流との主従関係は
むしろ義清個人ないしは義清以後に限定しておくのが妥当と思わ
れる。」と、示唆的な見解を述べられています。
 
西行は1135年7月、18歳の年に成功にて「兵衛尉」に任じられて
います。「成功=じょうごう」とは、平安時代中期以降に官職を
販売していた制度であり、佐藤家はそれに応募したということです。
これは当時の相場で「絹一万匹」という高額なものですから、貧窮
している家の用意できるものではなかったようです。 
もともと西行の祖父季清の時代には田仲荘だけでなく隣接する
池田荘も合わせて管轄していて、自前の大寺の建立計画もあった
ようです。それ程に佐藤家は富んでいたものと推測できます。

朝廷は成功で得たお金は各建物の造営費用などに充当していました。
西行がこの時に拠出した費用分は鳥羽離宮の「勝光明院」の造営に
用いられたようです。

兵衛尉の仕事は内裏の中の担当場所の警戒、見回りなどが任務です。
禁裏の一番外側の門の内外は衛門府の担当であり、紫宸殿などに
最も近い部分は近衛府、兵衛府はその中間の警護が担当でした。

和田英松氏の「官職要解」によると、兵衛少尉の位階は正七位上です。
従って西行は兵衛尉だけでなく、のちに鳥羽院の北面の武士になった
ことによって、従六位下の位階に昇進したものだと思います。

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  (後記)

本日は6月29日。明日は夏越し。今年の半分もすでに終わろうと
しています。
これまでの今年前半は、いろんなことに思いばかりはあっても思うに
任せない状況でした。おそらくは年内はこんな風にして過ぎて行く
ものと覚悟しています。発行頻度も多くはないはずです。
忸怩たるものを思います。ご了承願います。

今号の徳大寺実能。西行にとっては少年期に面識ができてから特別な
人であったとも言えるでしょう。遺されている詞書や歌からも実能に
対する西行の思いが伝わってきます。

政治的にみれば傍流であり、没落の道をたどっていた閑院流が、にわ
かに輝きだした1100年代初頭。そして待賢門院の落飾、崇徳院の譲位。
保元の乱。音を立ててくずれて行く徳大寺家の威光を実能は必死に
食い止めようとして人生の後半には苦悩の深い日々を過ごしたものと
思います。自分が努力しても思うようにはならないということも、
痛感した日常だったでしょう。
諦念とあせりをないまぜにさせながら、守仁親王の東宮傅にもなった
はずです。そういう所に、歴史の表面に現れない実能の人間臭い一面
をかいま見る気がします。

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