西行辞典

西行辞典 第300号(140530)


カテゴリー: 2014年05月30日
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      ◆◆◆◆  西行辞典  ◆◆◆◆
                        
                  vol・300(不定期発行)
                   2014年05月30日号

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           今号のことば    

       1 藤原定信(ふじわらさだのぶ)
       2 藤原実方(ふじわらさねかた)
       3 藤原実定(ふじわらさねさだ)
       4 藤原実行(ふじわらさねゆき)

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       ◆ 藤原定信(ふじわらさだのぶ) ◆

【藤原定信】=「さだのぶ入道・観音寺入道生光」

藤原定信の生年は1088年、没年は1156年。69歳。
官職は宮内権大輔。世尊寺定信とも言います。
藤原北家魚名流の藤原行成(972~1027)の子孫。定信は行成を祖と
する世尊寺家の第五代を継ぎました。世尊寺家は能書家の家柄です。
定信の書いたものが現在でも何点か残っています。

1088年生まれの定信入道は西行とは丁度30歳の年齢差があります。
定信の出家は1151年10月10日。多武峰での出家と言われ、法名は生光。
藤原定実の子であり、待賢門院中納言の局とは兄姉とも言います。
待賢門院の女房である中納言の局を通して定信と西行とは早くから
面識があったことも想像できます。
定信は歌人ではなく、かつ年齢差はありますが贈答歌の感じから
類推すれば、西行とは親しい関係であったのかも知れません。
定信の出家は60歳を超えていて西行34歳の時であり、下の贈答歌は
定信出家前後から遅くても数年間のものです。

ちなみに、藤原行成は小野道風・藤原佐理とともに三蹟の一人です。
宮中において藤原実方と口論をして、そのために実方は陸奥の守に
左遷されたという逸話があります。
建礼門院右京太夫も世尊寺家の系譜に連なる人々の一人です。

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    さだのぶ入道、観音寺に堂つくりに結縁すべきよし
    申しつかはすとて       観音寺入道生光

01 寺つくる此我が谷につちうめよ君ばかりこそ山もくずさめ
 (観音寺入道生光歌)(岩波文庫山家集215P釈教歌・新潮858番)

02 山くづす其力ねはかたくとも心だくみを添へこそはせめ
     (西行歌) (岩波文庫山家集215P釈教歌・新潮859番)

○さだのぶ入道

藤原定信のこと。出家をした人は「入道」と呼ばれます。

○観音寺

どこにあるか確定していません。
平凡社刊「京都市の地名」によれば、京都に観音寺は八ヶ所ほど
あったようですが、藤原定信の詞書にあるように「山を崩す……」
という描写に該当する観音寺は、多くはなかったはずです。
滋賀県湖東の観音寺説もあったようですが、現在では、「観音寺」
は京都の「今熊野観音寺」を指すということで一応の決着をみて
いるようです。

東山にある今熊野観音寺は嵯峨上皇の発願により、空海が開基と
なったと伝えられています。850年頃には広大な寺域に伽藍が建ち
並んでいたようです。
従って定信入道が「観音寺」というお寺を作ったのではなくて、
観音寺そのものは早くからありました。「観音寺に堂つくりに」と
あるように、定信は観音寺の寺域内に支院か小庵を建立したのでは
なかろうかと思われます。

紀伊の熊野詣に33度も行っていて、熊野社を強く崇敬していた後白河
法皇は、仙洞御所であった法住寺の鎮守社として熊野権現を勧請して
「新熊野神社」を建立しました。1160年のことです。この時に「観音寺」
も「今熊野観音寺」と称するようになったようです。後白河法皇が
「今熊野」の寺名を与えたものだと言われます。
もちろんそれは定信没後のことです。

今熊野観音寺は応仁文明の争乱で焼失した後に、江戸時代になって
再建されてからは泉涌寺の塔頭の一つになったそうです。
観音寺あたりは、京都の街中から少し離れているだけですが、深山
幽谷の趣きがあります。郭公の名所とも言われますので、西行も
一再ならず、観音寺に行ったことと思います。

○結縁

「けちえん」と読みます。
仏道との縁を結ぶこと。その機縁のこと。

○君ばかりこそ

「君」とは西行を指しています。西行に特殊な能力が備わっている
とでも読める言葉ですが、大峰修行のことなどが知られていたの
かもしれません。西行34歳までには大峯入りをしているはずです。
和歌文学体系では「高野山大塔再建などで発揮された西行の勧進能力
(土木事業能力を包摂)を評価していう」とあります。

○心だくみ

心の中で思案を巡らすこと。
この場合は、心匠=気持ちの上での手助けのこと。

(01番歌の解釈)

「今、定信入道が観音寺で堂を造っておいでですが、その寺を
造るこのわが谷を土で埋めて下さい。あなたばかりは山をも崩す
念力をお持ちですから。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

「山を崩すだなんて、そんな腕力は持ち合わせませんが、何とか
工夫して協力いたしましょう。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

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       ◆ 藤原実方(ふじわらさねかた) ◆

【藤原実方】=「中将・実方の御こと」

生年不詳、没年は998年11月とも12月とも言われます。陸奥守として
陸奥に赴任中に客死しました。40歳に満たない年齢と思われます。
藤原北家流師尹(もろただ)の孫。父の定時が早世したので叔父の
済時の援助を受けて育ったといわれます。
左近将監、侍従、左近少将、右馬頭などを歴任して、994年に左近
中将。翌年に陸奥守として陸奥に赴任。

「古事談」によると、藤原行成との軋轢があり「歌枕見て参れ」
と一条天皇から命を受けて陸奥守に左遷されたとあります。
実方が陸奥に赴任したのは、その説以外にも自発説ほかいくつか
の説があります。どれが本当か分かりません。
「源平盛衰記」によると陸奥国笠島の道祖神社の前を下馬せずに
通り過ぎたために、道祖神の怒りに触れて、落馬して命を落としたと
書かれています。
お墓は現在の宮城県名取市愛島にあります。1798年建立の西行の
「朽ちもせぬ」歌の歌碑も建っています。ただし風化が激しくて
碑文は殆ど読み取れません。
家集に「実方朝臣集」があります。中古三十六歌仙の一人です。

下の歌は確実に初度の旅の時の歌ですが、同じ旅の時の一連の
歌から離れて一首のみ、ぽつんと採録されています。そのことが
気にはなります。

なお、芭蕉の「おくのほそ道」では、芭蕉は行き過ぎて実方の墓
には行かなかったのですが、人から聞いたこととして、「形見の
薄今にあり」と書いています。
「おくのほそ道」は脚色が多くて、そのままでは信用できません。
ですが、同行した曽良随行日記と照らし合わせると旅の実際の
様子が分かります。曽良は「行過テ不見」とのみしたためて
います。従って芭蕉が行った当時は「形見の薄」があったのか
どうかは不明です。

白州正子氏は「西行」の中で以下のように記述しています。
「竹林の入り口に、勅使河原流の外国産の枯尾花が植えてあり、
大げさに(かたみの薄)と記してある。いうまでもなく「奥の
細道」の「かた見の薄今にあり」の薄で、歌枕もここまでリアリ
ズムに徹すれば何をかいわんや。」

実方は死後に雀に姿を変えて都に戻ってきたという伝説があり
ます。もとは中京区でしたが移転して現在は左京区にある
「更雀寺」が、その伝説を留めています。

 かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを
                (藤原実方 百人一首第51番)

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    みちのくににまかりたりけるに、野中に、常よりもとおぼ
    しき塚の見えけるを、人に問ひければ、中将の御墓と申す
    はこれが事なりと申しければ、中将とは誰がことぞと又
    問ひければ、実方の御ことなりと申しける、いと悲しかり
    けり。さらぬだにものあはれにおぼえけるに、霜がれの薄
    ほのぼの見え渡りて、後にかたらむも、詞なきやうにおぼえて

01 朽ちもせぬ其名ばかりをとどめ置きて枯野の薄かたみにぞ見る
         (岩波文庫山家集129P羇旅歌・新潮800番・
       西行上人集・山家心中集・新古今集・西行物語)

七家集本ではこの歌は3首連作となっています。1首目は01番歌です。
2首目と3首目を記します。

02 はかなしやあだに命の露消えて野べに我身の送りおかれむ
     (岩波文庫山家集193P雑歌・新潮764番・宮河歌合・
                  新続古今集・西行物語)

03 いつかわれ古き卒塔婆の数に入りて知られず知らぬ人にとはれむ
                    (七家集本山家集)   

○みちのくに

「道の奥の国」という意味で陸奥の国のことです。陸奥(むつ)は
当初は(道奥=みちのく)と読まれていました。
927年完成の延喜式では陸奥路が岩手県紫波郡矢巾町まで、出羽路
が秋田県秋田市まで伸びていますが、初期東山道の終点は白河の関
でした。白河の関までが道(東山道の)で、「道奥」は白河の関
よりも奥という意味です。

大化の改新の翌年に陸奥の国ができました。
陸奥は現在の福島県から北を指しますが、その後、出羽の国と分割。
一時は「岩城の国」「岩背の国」にも分割されていましたが、
西行の時代は福島県以北は陸奥の国と出羽の国でした。
陸奥の国は現在で言う福島県、宮城県、岩手県、青森県を指して
います。
出羽の国は山形県と秋田県を指します。

○まかりたる

出向いて行くこと。

○常よりもとおぼしき

普通よりも、ということ。野中にはありえない立派な塚……という
意味になります。
没後150年ほどを経ても実方の墓として誰かに管理されていたと
解釈して良いものと思います。

○中将の御墓
    
藤原実方の墓のこと。宮城県名取市愛島の野中にあります。
「朽ちもせぬ」歌の石碑も立っていますが文面は判読できません。
この歌碑は藤原実方800年遠忌のために1798年に建立されたものです。

○実方の御こと

藤原実方のことです。

○さらぬだに

そうでなくとも・・・という意味。墓は他の場所よりも哀感を
覚えるということを言っています。

○朽ちもせぬ

藤原実方の歌の名声は不朽のものであり、歌人としての名前は
いつまでも忘れられないものであるということ。

○枯野の薄

現在も藤原実方のお墓に行く前に薄が植えられています。
いかにもとって付けたようで笑ってしまいました。
あろうことか、外国産の薄のようです。

○あだに命の露

(あだ)は誠意がない、空しい、意味がない…などを表す言葉。
(命の露)は短く、はかないことを言う「露の命」と同義です。

○知られず知らぬ人

自分が死亡した後の事だから当然に事後のことは自分では知る
ことができないし、かつ、ずっと後の世の人も自分が生きてきた
ことなどは知ることもないということ。

(01番歌の解釈)

「不朽の名声だけをこの世に残して、実方中将はこの枯野に骨を
埋めたというが、その形見には霜枯れの薄があるばかりだ。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

「はかないことだ。空しく命が失われて、私のからだが野辺送りに
送りこまれようとする。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

「私も死してから、無窮の星霜が過ぎ去った時、朽ちた卒塔婆を
見た人に誰の墓だと訪ねられるのだろう。」
                     (阿部の解釈)

【七家和歌集】

壬生忠岑、紀友則、遍昭僧正、源公忠、藤原清正、藤原兼輔、西行
の7人の詠歌を集めて綴じた集ですが、成立年代などの詳しいことは
分かっていないようです。

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       ◆ 藤原実定(ふじわらさねさだ) ◆

【藤原実定】=「後徳大寺左大臣」

山家集には藤原実定の名前はありません。ですが、「続後撰和歌集」
に「後徳大寺左大臣」の名前がありますから取り上げます。

後徳大寺左大臣は藤原実定のことです。1139年~1191年。53歳没。
西行が随身した藤原実能の孫に当たり、藤原公能の嫡男です。
実能(1096~1157)→公能(1115~1161)→実定(1139~1192)と続き、
実能は「徳大寺家」の祖となり、実定が「後徳大寺家」の祖となって
います。妹の多子は近衛天皇と二条天皇の皇后、忻子は後白河院の
中宮になっていますから、待賢門院から続く皇室の外戚の地位を
占めていたことになります。
藤原俊成の甥、藤原定家の従兄弟にもなります。
西行とは21年遅く生まれ、1年遅く没しました。源平争乱、鎌倉幕府
創立という激動の時代に、政治の中枢にいた人物の一人とも言えます。
「平家物語」によれば、後白河院の大原御行にも随行しています。

 ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる
             (後徳大寺左大臣 百人一首第81番)

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     老人述懐といふことを人々よみけるに

01 山深み杖にすがりて入る人の心の底のはづかしきかな
      (岩波文庫山家集189P雑歌・新潮1238番・夫木抄)

○人々よみけるに

誰々と詠みあったのかは分かりません。
続後撰和歌集に縁忍上人の歌がありますから、少なくとも藤原実定と
西行と縁忍上人の三人はいたことになります。

○山深み

いろいろな意味で受け止められますが、仏教徒として一念に信仰する
道は困難でもあり奥が深いという解釈が一番良いかと思います。
夫木抄では恋歌としてあり、そうであるなら人を恋うる恋情の深さ
とも解釈できます。

(01番歌の解釈)

「山が深いので杖にすがりながらも、仏の教えを求めて入山する
老人の心の奥を、我が身に照らし合わせると、何とも恥かしく
思われる我が心だよ。」
              (新潮古典集成山家集から抜粋)

(山ふかみ歌について)

続後撰集1126番に以下の記述があるそうです。

「後徳大寺左大臣、西行法師などともなひて大原にまかれりけるに、
来迎院にて、寄老人述懐といふ事をよみ侍りけるに」  

「山の端に影傾ぶきて悲しきは空しく過ぎし月日なりけり」
               (縁忍上人 続後撰集1120番)

当然に断定はできませんが、山家集記載の老人述懐歌は189Pにある
「山ふかみ・・・」歌の一首のみですから、16番歌は来迎院での
この歌会の時の歌である可能性が強いものと思います。
(聞書集には「老人述懐」として3首あります。)

西行の「山ふかみ・・・」歌については、出家後かなりの年数を
経てのものであることが山家集成立過程から見てからも類推できます。
それは徳大寺家との交流が西行出家後も長く続いていたということの
証明にもなります。
歌もやはり恋の歌などではなくて、仏道上のものと考えて良いのでは
ないかと思います。
この歌は西行本人のことを詠った歌ではないように思います。
山家集に採録されている以上は西行60歳頃までの歌と考えてよく、
西行本人の事実に即した歌とするなら、老人という意識は強く内在
させていたとしても杖を用いるほどでもないものと思います。

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       ◆ 藤原実行(ふじわらさねゆき) ◆

【藤原実行】=「三条太政大臣」

藤原公実の次男で、実能の兄の実行のこと。1080年~1162年在世。
従一位・太政大臣など歴任。三条家の始祖です。

下の詞書は徳大寺実能の別荘である徳大寺を訪れた時のものです。
ただし、徳大寺焼失後ほどない時期のものでしょう。1157年9月に
藤原実能は死亡していますので1157年、もしくは1158年の秋の
ことだと思います。
焼け跡がまだ完全には整備されていない頃のことだと考えられます。
この徳大寺で歌会などもあって、藤原実行が歌を詠ったことが
分かります。
この歌会は何年のことか分かりません。西行が実能の随身だった
1140年までのことか、それとも出家してからのものか不明です。
実能の建てた徳大寺での歌会とするなら1147年以降のことです。
ともあれ、西行はこの実能の家系に連なる人々とは終生、親しい
交流があったものと思います。

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01  徳大寺の左大臣の堂に立ち入りて見侍りけるに、あらぬ
   ことになりて、あはれなり。三條太政大臣歌よみてもてなし
   たまひしこと、ただ今とおぼえて、忍ばるる心地し侍り。
   堂の跡あらためられたりける、さることのありと見えて、
   あはれなりければ

 なき人のかたみにたてし寺に入りて跡ありけりと見て帰りぬる
     (岩波文庫山家集186P雑歌・新潮欠番・西行上人集)
          
○徳大寺の左大臣の堂

徳大寺のこと。保元元年5月(1156)に放火により炎上しています。
徳大寺の左大臣とは藤原公実の四男で藤原実能のこと。西行は
実能の随身でした。

○あらぬことになりて

焼失してしまったことを指します。

○堂の跡あらためられたり

消失後に再建のための準備をしていること。

○なき人のかたみにたてし寺

(なき人)とは、藤原実能のこと。

(詞書と歌の解釈)

「一首にしみじみとした気分が歌い据えられている。亡き実能が、
その人を偲ばせるものとして建てた寺に西行はいま訪れて来て
いるのであるが、かつての面影は全くない。しかし焼跡の整理が
され、修築もされる様子をみて、「跡ありけると見て帰りぬる」
という言葉になっているのではなかろうか。「跡ありけり」は、
邸宅と、実能の跡を継ぐ公能とを絡ませた感慨だととれるので
ある。(後略)」
          (窪田章一郎氏著「西行の研究」より抜粋)

「今はなき実能公が形見としてお建てになられて寺に入って、
まだその跡が残っていると見て帰ってきたよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(徳大寺左大臣の堂)

藤原実能は衣笠山の西南麓に山荘を営みました。この山荘の中に
得大寺(徳大寺とも表記します)を建てました。1147年に堂の
供養がされたので、その年に落成したものと考えられます。
これが徳大寺左大臣の堂です。それで実能は徳大寺の祖と言われます。

しかしそれより先に実能より数代前の藤原実成(975~1044)が同所に
寺院を営み、これを得大寺、あるいは徳大寺といい、その辺りが地名
として徳大寺と言われていました。
 
実能の立てた徳大寺は1156年の保元の乱のはじまる直前に賊徒に
より放火され、灰燼に帰しました。百錬抄では「勇士乱入」として、
放火犯を褒め称える言葉を使っていますが、これは政治的な意図が
あるのでしょう。もしくは「勇士」という言葉の解釈が現在とは
違うのかも知れません。
 
実能は1157年に死亡しています。実能の跡を継いだ公能も1161年に
死亡しましたので、焼けてしまった徳大寺の再建は進んでいなかった
ものと考えられます。
ここに新たに寺を建てたのは公能の嫡男の実定(1139~1191)です。
実定は後徳大寺の左大臣と呼ばれ、百人一首にも撰入して81番です。
 
この徳大寺は1458年(1450年とも)に藤原公有が細川勝元に譲り
渡して、竜安寺となり、今日に至ります。
竜安寺の枯山水式の石庭は白砂と15個の石でできていて、特別名勝
に指定されています。古来、虎の子渡しと呼ばれてきました。
一説には北斗七星をかたどったものとも言われます。
また、境内南部にある鏡容池は美しい池です。徳大寺の頃からの
ものと言われますので、西行もこの池畔にたたずんだことは確実
だろうと思います。
           (平凡社「京都市の地名」などを参考)

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  (後記)

しばらく発行しないうちに5月も明日で終わりとなりました。
明後日からは6月。いよいよ暑くなります。

この間、いろいろあったと言えば言えますが、ことさらに書くほど
のことでもなかろうと思います。
西行辞典は、出せる状況にあれば発行します。しかしながら、この
先これまでのペースで定期的に発行するのは本年は無理な状況です。
ご賢察をお願いいたします。

病院のベッドに臥しながら、思わぬ事態を迎えてもこのマガジンの
完成をいつの日にかと願っておりました。
意味があるのかどうかは不明のままですが、できればそうなるように
頑張りたいと思います。

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  ◎ 「西行辞典」第300号 2014年05月30日発行 

  ◎ 発行責任者 阿部 和雄
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  ◎ 発行システム インターネットの本屋さん「まぐまぐ」を
     利用させていただいています。
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