歌舞伎素人講釈

メルマガ「歌舞伎素人講釈」第460号


カテゴリー: 2017年10月29日
*******************平成29年10月29日発行****
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    メルマガ「歌舞伎素人講釈」  第460号
            連動ホームページ: http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/ 
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こんにちは、吉之助です。

2か月近い長い連載になりましたが、「野田版・桜の森の満開の下」論が
やっと完結しました。本メルマガでは、その5回目をお届けします。
坂口安吾の作品論としても、野秀樹田の演劇論としても、ちょっとユニーク
な視点の批評に仕上がったと思います。

サイトの方には、最近の歌舞伎座・国立劇場での舞台の剣劇随想も
掲載してますので、そちらもご覧ください。


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○お知らせ:吉之助3冊目の書籍本が出ました。。

お手にとってご覧いただき、是非お買い求めください。

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すべて「武智全集」未収録の論考です。吉之助が解説を付しました。
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○時代錯誤桜幻影(ときあやまりてさくらのまぼろし)
                 ~「野田版・桜の森の満開の下」論    第5回目

平成29年8月歌舞伎座:「野田版・桜の森の満開の下」

中村勘九郎(耳男)、中村七之助(夜長姫)、市川染五郎(オオアマ)他

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13)歌舞伎版の「贋作・桜の森の満開の下」のこと

「贋作・桜の森の満開の下」は、故・十八代目勘三郎との間ではかなり早い
段階で歌舞伎で上演するアイデアが挙がっていたそうです。吉之助は、今回
(平成29年8月歌舞伎座)での上演を見ました 。第1幕は「どんなもん
だかなあ」という感じでいまいち乗れずに見ていましたが、第二幕幕切れ近
くなって急に盛り上がり、ヒダの民が殺戮されるなかで夜長姫の嬉しそうな
声が響きわたり、マナコが死に、鬼の面体に変わった夜長姫の首を耳男が絞
める場面はインモラルな感触が極まって、それがインモラルな歌舞伎の感性
にぴったり合って、これはなかなかのシーンに仕上がっており、これまでの
野田歌舞伎のなかでも出色の出来だと思いました。なるほど故・勘三郎が
「贋作」の歌舞伎化を希望したならば、その嗅覚はなかなかのものだと思い
ました。ただし、幕切れにおいては前章で触れた通り印象がインモラルなま
まに終わり、安吾原作のアモラルな要素を表出できないまま終わっています。

耳男が夜長姫を殺した後、舞台に座り込んだ耳男の傍らを、尊い人の行幸
(これからの国を治めるオオアマの行列)、幸福な王の時代の行幸(もはや
滅び去ったヒダの亡者たちの行列)というふたつの隊列が、桜の花の散るな
かを、影のように静かに歩む、この最後のシーンを美しいと評価する方は多
いだろうと思います。吉之助もそれは理解しますが、このシーンはインモラ
ルであると思います。インモラルであるということは、つまりカブキ的なシ
ーンだということになるわけです。(第9章を参照のこと)、歌舞伎という
演劇は相反するふたつの要素のなかで引き裂かれるという場面はお得意なの
ですから、歌舞伎の様式ならばこれくらい出来て当然です。

しかし、今回の「野田版・桜の森の満開の下」は、これで「新しい歌舞伎」
を主張できるかという線で議論するべきだろうと思います。(注:大正期の
二代目左団次の「新歌舞伎」と区別するために「新しい歌舞伎」と云うこと
にします。)新劇を歌舞伎スタイルでやれば新しい歌舞伎になると云う単純
なことではないということを、まず言っておかねばなりません。古典歌舞伎
の感覚を新しい時代の感性で「いなす」ということで、それは新しい歌舞伎
になるのです。

二代目左団次の新歌舞伎が「新」である所以は、例えば「番町皿屋敷」(岡
本綺堂作)幕切れで青山播磨が槍を片手に花道を一気に駆けるシーンにあり
ます。古典歌舞伎の幕切れならば、主人公はいったん花道七三で立ち止まり
何かの思い入れをした後、揚幕へ引っ込みます。これはそうした方が役者が
立派に見えるということもありますが、こうすることが「古典」の様式感覚
なのです。だから古典の様式からすれば、播磨は花道七三でいったん立ち止
まり、恋人お菊の死骸を投げ込んだ井戸の方を見やり、断ち難い未練を振り
切る思い入れあって揚幕へ引っ込む、これが常識的な古典歌舞伎のやり方な
のです。ところが二代目左団次の播磨は意図的にそれをしません。花道七三
で立ち止まらず、揚幕へ一気に駆け入ってしまう。播磨が花道七三で立ち止
まると思っていた観客は、あっけに取られてしまいます。古典の感覚を裏切
るところに、二代目左団次の新歌舞伎が「新」である所以があるのです。

あるいは「頼朝の死」(真山青果作)の幕切れを見てください。尼将軍政子
が「事も愚かや。家は末代、人は一世じゃ。」と頼家を制し、頼家は「母上!
うむ・・、うむ・・、うむ・・・。」と呻き、刀を投げ捨て、やがてまるで
幼児の如く泣き叫びます。常識的な古典歌舞伎のやり方ならば、頼家は刀を
持ったまま無念の表情で母親を睨みつつ形を決める。それで長刀を構えた政
子と引っ張りの絵面となる幕切れになるのが定式なのです。それを意図的に
ぶっ壊して、無様に泣き叫ぶ主人公を見せて幕にする、古典の感覚を裏切る
ところに、二代目左団次の新歌舞伎が「新」である所以があるのです。

ここで肝心なことは、古典のキマる感覚を裏切る,「いなす」スタイルのなか
に作者の思想が込められているということです。二代目左団次はそれによっ
て作品が紛れもなく大正・昭和初期の、新しい時代の歌舞伎であることを主
張するのです。綺堂も青果もそういうことが分かって、脚本のなかに工夫を
凝らしているのです。(詳しいことは別稿「左団次劇の様式」をお読みくだ
さい。)野田も「新しい歌舞伎」を主張しようと云うならば、歌舞伎に於い
てはスタイルこそ思想だということに気が付いて欲しいと思いますねえ。歌
舞伎では、特に幕切れが大事です。

80年代の現代演劇を歌舞伎でやれば、当然内容は新しいわけです。劇に盛
り込まれる思想も新しくなりますが、それだけでは新しい歌舞伎ということ
にならないのです。芝居をインモラルな感覚のなかに収まれば、確かに歌舞
伎らしい印象に出来ます。しかし、それは必要条件だけれども、それだけで
「新しい歌舞伎」ということにならないのです。野田は、故・勘三郎と「新
しい歌舞伎を作ろう」ということを話し合ったのではないのでしょうか?そ
れならば 、これが野田歌舞伎だというスタイルをどうやって作る?というこ
とが大事になるはずです。

これからの日本を治めるオオアマの行列、もはや滅び去ったヒダの亡者たち
の行列と云う、ふたつの隊列が、桜の花の散るなかを、影のように静かに歩
む、確かにこれは「野田版・桜の森の満開の下」の世界観を示す「カブキら
しい」幕切れだと云えます 。しかし、野田が自身を現代演劇の騎手であると
いう自負があるならば、これは 「カブキ臭い」感覚だと切り捨てる批判精神
が絶対に必要です。「このままだとカブキ臭くなっちゃうぞ」と思える場面
を本能的に回避して、そうならない方向へ修正するセンスが必要です。

だから「いやあ、まいった、まいった」という耳男の最後の台詞の扱いが大
事なのだと吉之助は言いたいのです。この世のインモラルな・嫌な出来事を
サラリと受け流す為の、どこにでも行けるおまじないです。これならば幕切
れのインモラルなカブキ臭い感覚をサラリといなすことが出来ます。ここを
生かすことで、野田歌舞伎が、古典と一線を画す「新しい」歌舞伎だという
スタイルを手にすることができるはずです。残念ながら、今回の歌舞伎版は、
そのような幕切れに成り切れていませんでした。逆に「このくらいすればカ
ブキらしいと言ってもらえるかな・・・」というところがチラつきます。野
田は、古典歌舞伎とは何か、新しい歌舞伎とは何かということの設計図をま
だ持っていないのでしょうねえ。結局、これは故・勘三郎は(串田和美との
連携を含めた)実験歌舞伎で何をやってきたかという問題に帰せられるわけ
ですがね。

舞台を見て気が付いたことをいくつか記すると、今回の歌舞伎版では、染五
郎も猿弥も頑張ってはいますが、クニの成立とアニミズムの崩壊という筋を
荷うオオアマとマナコが弱い。この二人がカブキらしい枠のなかに収まって、
大人しくてインパクトが いまひとつ弱い。この筋が歌舞伎での「世界」を
規定するのですから、これを太くかつ破天荒に持っていけば時代物の大きさ
が出せる と思います。或る意味でオオアマとマナコは、耳男以上に重要な
役割を担っています。ここは夢の遊眠社による再演映像(平成4年2月)で
見るオオアマ(若松武史)、マナコ(羽場裕一)の勢いと熱さには、とても
及びません。 再演映像では、満開の桜の光景での殺戮場面のなかに、粗削
りであるがゆえにアモラル感覚がチラッと見えていたようです。しかし、今
回の歌舞伎版では、そこがインモラル感覚にはまっています。さすがにこう
いう時に、歌舞伎役者はキマるのが上手い。しかし、キマるとカブキ臭くな
っちゃうぞという感覚が必要な時もあるのです。

耳男に関しては恐らく勘九郎の耳男の方が、故・勘三郎が耳男を演じる(こ
れは幻となってしまった)よりも、本来の役のサイズに近いだろうという気
がします。勘三郎だと熱演のあまり自分の方に芝居を引き付け過ぎて、良い
意味でも悪い意味でもカブキ臭くなりそうです。勘九郎は素直な出来で、こ
れは悪くありません。

七之助の夜長姫はよく頑張っているし、ヒダの民が殺戮されるなかで嬉しそ
うにはしゃぐ辺りはなかなかでした。これは伝統的な女形の技法がよくはま
ったということでもあります。ところで夜長姫が鬼女の面相に変わる寸前で
すが、「その時、おぶっていたのはあたし?」と耳男に語り掛ける時、七之
助の夜長姫が声を太く男の地声を出します。これは女形の技法が特徴的に活
かされた場面で効果的かつ衝撃的と感じた方は多いだろうと思います。それ
は確かにそのように考えることも出来ますが、吉之助は臍曲がりですから、
ここで女形のインモラル的な本質 (女形の嘘)が露呈したと考えます。本来
が男である女形にとって、男であることが嘘なのか、女であることが嘘なの
か、つまり女形はふたつの本質によって引き裂かれているのです。女形が
「その時、おぶっていたのはあたし?」という台詞を男の地声で言う時、こ
れは真実か?それとも嘘か?というインモラル感覚に引き裂かれてしまうの
です。これは夜長姫がアモラルな存在であり、この場面がアモラルなシーン
であって欲しいと考える吉之助には、とても気に障ります。吉之助は、この
台詞はトーンを変えずに女の声で言って欲しいと思います。 もちろん完全
にアモラルにはできませんが、この方がこの場面をいくらかでもアモラルな
印象へ持って行けます。

因みに夢の遊眠社による再演映像でも、夜長姫役の毬谷友子も、この同じ台
詞を女の情念を込めてトーンをちょっと低めに落としてしゃべってます。吉
之助はこれもトーンを変えない方が良いと思いますが、毬谷は女優であって
女形ではないですから、まあ大した問題ではないでしょう。女という本質に
変わりはないのですから、どうやったってどちらも真なのです。しかし、イ
ンモラル的な本質を持つ女形を起用する場合には、女形の技巧を活用するこ
とがどのような演劇的 暗喩を持つか、現代劇の演出家はよくよく考えなけれ
ばならないことです。



14)歌舞伎版の七五調について

松竹で「桜の森の満開の下」制作発表がされた時、タイトルが「贋作」でな
くて「野田版」となっていたので、野田がどこか歌舞伎向けに台本に手を入
れたらしいことは分かりました。しかし、吉之助は手を入れるならばそれは
結末部分だろうと考えていたので、台本をト書きも含めて七五に書き直した
と聞いて、野田はまだ歌舞伎が分かっていないのだなあと、とてもがっかり
しました。当月(平成29年8月)歌舞伎座の筋書をめくると、「物怪
(もっけ)の幸い」なる作者の言葉が掲載されています。それを読むと、

『いまだカブキが、なんなのか?わからぬままで、いる俺だ。わからぬがゆ
え、この度は、七五のリズム、崩さぬように、この台本を、仕上げてはみた。
なんならば、歌舞伎には、門外漢の、この俺が、歌舞伎見て、「ああ歌舞伎、
その独特の、言い回し」、感じる時は、七と五の、音で出来てる、こと多く、
ここはひとまず、そんなリズムで、創りあげては、みようじゃないか、かよ
うに思った、次第でござる。(中略)勘三郎が、この当日の、パンフレット
まで、七五で書いて、いる俺を見て、「お前馬鹿だね、相も変わらず」、そう
喜んで、くれれば物怪(もっけ)の幸いなりと。』(野田秀樹:「物怪
(もっけ)の幸い」)

だそうです。なるほど故・勘三郎に対する野田の思いの強さは分かります。
野田が半ばふざけて七五の文章を書いていることも分かります。しかし、残
りの半分は大真面目だということも分かるので、野田は歌舞伎の台詞のスタ
イルというのは、「七と五だ」と考えているのでしょう。吉之助は野田の認
識が正しいとまったく思いませんが、それは兎も角、野田が現代演劇の騎手
だという自負があるのならば、そのような「七と五へのこだわり」が歌舞伎
を古臭いものにしているんだ、それをぶっこわすことこそ勘三郎が自分に託
した使命だという風に考えてほしいと思うのですが。

もし勘三郎が今も生きていて「贋作」を演ると云うならば、野田はやっぱり
台本を七五に書き直したでしょうか。野田は「お前、どうだ、これが演れる
か?これで演ってみな」と勘三郎にそのまま台本を渡したと思うし、勘三郎
もそれを受けたと思います。ところが今回、野田は台本を七五に書き換えた。
これは勘三郎の遺児たちに、親鳥が雛にエサを噛み砕いて与えるようなもの
で、それは野田の親心、優しさなのかも知れないが(多分、そのつもりなの
だろうねえ)、そういう気遣いは本人たちの「タメ」にならないのではない
でしょうか。

昭和26年6月新橋演舞場で加藤道夫の「なよたけ抄」が初演された時、折
口信夫が次のように書いた文章を、たまたま目にしました。

『演出者に、感謝は感謝として、小言を申し上げたい気がした。役者がそう
演出者の語を守るものでないということは聞いているが、あの人たち(歌舞
伎役者)は、もっと痛めつけてもらっても、不服は言わない筈の教養人であ
る。以前の歌舞伎の人々は、新劇だって、立派に新劇としてしおうせたもの
だ。(中略)だが今度の場合、ちょっともめりはりだって変わっていない舞
台を見て、演出者も作者も、遠慮が過ぎたという気がした。歌舞伎の脇や三
枚目に教えないで何が出来るものか。』(折口信夫:「なよたけ」の解釈・
昭和26年8月)

これは、そっくりそのまま野田に差し上げたい文章です。作者は役者に対し
て「お前、どうだ、これが演れるか?これで演ってみな」と言える権利があ
るのです。自分の文体を壊してまで、役者におもねる必要などまったくあり
ません。歌舞伎役者はもっと痛めつけてもらって結構、新劇ならば立派に新
劇としてしおうせるように出来ないと、歌舞伎は駄目になってしまいます。
既に南北の台詞でも新歌舞伎の台詞でも、七五で割らないとしゃべれない、
様式感覚があやふやな歌舞伎役者が大勢いるのです。彼らが固執している
「カブキらしさ」なるものを打破することこそ、勘三郎が野田に期待したこ
とだと思うのですがね。 まあ幸いであったことは、いつもと勝手が違う野田
の芝居だと緊張するようで、今回の舞台を見るとあからさまに七五が出てい
た役者はさすがにいなかったことです。しかし、慣れちゃうと分からないぞ。

ところで歌舞伎の台詞の七五とは何でしょうか。現代劇作家である野田は、
そこに明確な演劇史的な視点を持つべきです。作詞家として稀代のヒットメ
ーカーでもある小説家のなかにし礼が、七五調の日本語について次のように
語っています。

『日本の歌は七五調のリズムで構成されることが多い。けれど僕は、七五調
で表現し切れずにこぼれている様々なものを、そのリズムを使わないことに
よって救い上げたかった。七五調は、おめでたい語調なんです。たった今、
人を殺しても、七五調で見得を切ればセーフという感覚が日本語にはある。
悪党だって「知らざあ、言って聞かせやしょう」と節を付ければ、何となく
格好がついてしまう。七五調が持つ、そうした神がかり的な部分には頼らな
いと決めたんです。』(なかにし礼:日経ビジネス・2004年4月12日
号・編集長インタビュー)

このなかにしの指摘は、まったく正しいです。七五というのはおめでたい語
調、人間の生きた感情を定式の枠組みにはめこむ、上から目線の語調なので
す。これは「体制側」の語調です。お嬢吉三や弁天小僧が、しゃべりたくっ
て七五調の台詞をしゃべっているのではないのです。七五調とは、彼らが生
きている幕末江戸の閉塞した時代と状況が、彼らにしゃべらせているリズム
です。なかにしは作家としての鋭い言語感覚で、このことをズバリ見抜いて
います。

「物怪の幸い」なんて ぎこちない七五の文章を書いて、野田だって本当の自
分の感情を表現できていない居心地の悪さを感じないはずがないと思います。
しかし、野田が、歌舞伎への裏返しの批評・パロディーのつもりでこれを書
いたと も思えません。野田は、半ば大真面目に台本を七五に書き直したと思
います。例えば今回の「野田版」では、オオアマの手先になったエンマロと
ハンヒャロが、「大きな声じゃ言えないけれど、オレは鬼だった頃が懐かし
い。また七五調でしゃべってみたい」という主旨のことを会話していました。
どうやら野田は、七五調が歌舞伎役者のふるさとだ、戻るべきところだと思
っているようですねえ。これは逆でしょう。七五調とは、人間の生きた感情
を定式の枠組みにはめこむ、「体制」の語調なのです。オオアマの手先に墜
ちたエンマロとハン二ャロが、今しゃべらされているのが七五調であるべき
です。野田が歌舞伎をまだよく分かっていない、新しい歌舞伎はどうあるべ
きかの設計図を持っていないことが、これだけで明らかなのです。現代演劇
作家の言語感覚として、野田が歌舞伎の七五調に懐疑を抱かないとすれば、
それは何かがちょっとおかしいのです。

本稿冒頭で野田が大衆の「魂」という言葉を使ったことについて、吉之助は
『大衆は「魂」なんて言葉を使わないのです、「魂」というのは武士の言葉、
それは体制側の言葉です』と書きましたが、野田の七五調の認識についても、
やはりズレていると思います。上から目線を感じるところがある。まずは歌
舞伎に於いてはスタイルこそ思想だということを肝に銘じ、演劇史的な視点
を持って歌舞伎を見直すことをお勧めしたいですね。「現代の観客にも受け
る面白い歌舞伎を作ろう」だけでは、どうにもなりません。それならば、あ
の勘三郎の実験歌舞伎とは何だったのかを問い直さねばなりません。

最後に耳男の最後の台詞、「いやあ、まいった、まいった」について触れて
おきます。「野田版」では、勘九郎の耳男が「まいった、まいったなあ」と
詠嘆調に言っていますが、この七五の感覚を帯びた「・・なあ」は不要です。
遠い故郷を見るような感じで、或いは夜長姫のことを思い出す感じで、これ
を詠嘆調にするのは、良くありません。ここは夢の遊眠社の「贋作」再演映
像での野田自演による耳男も同じような感じがしますが、これも良くありま
せん。夜長姫は「(人は俄か雨のことを)少しも、まいってはいないのよ。
だのに 「まいった、まいった」っていうの。(中略)あるでしょ。わから
ないうちにときめいていることって。」と言っているでしょう。これは明る
くサラリと、ポツンと小さい声で云うべき台詞だと思います。これで歌舞伎
の古典的なインモラルな幕切れから、ちょっと逃れられます。芝居はインモ
ラルな感覚からは決して逃れられないけれど、その瞬間に今までの出来事を
流して、少しだけアモラルな方向に印象が引っ張るためのおまじないです。
いい台詞を書いているんだけどなあ。

*本稿で引用した台詞は現代日本戯曲大系・14に拠ります。


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