歌舞伎素人講釈

メルマガ「歌舞伎素人講釈」第458号


カテゴリー: 2017年10月15日
*******************平成29年10月15日発行****
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                          ◎  
    メルマガ「歌舞伎素人講釈」  第458号
            連動ホームページ: http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/ 
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こんにちは、吉之助です。

今回お届けするのは、サイトに連載中の「野田版・桜の森の満開の下」論の
第3回です。まだ連載は完結してませんが、あともう少し続きます。

サイトの方では、最近の歌舞伎の舞台についても観劇随想を掲載しています
ので、そちらの方もぜひご覧ください。


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○時代錯誤桜幻影(ときあやまりてさくらのまぼろし)
                 ~「野田版・桜の森の満開の下」論    第3回目

平成29年8月歌舞伎座:「野田版・桜の森の満開の下」

中村勘九郎(耳男)、中村七之助(夜長姫)、市川染五郎(オオアマ)他

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7)日本芸能の伝統技法

「贋作・桜の森の満開の下」は昭和64年(1989)2月・日本青年館に
於ける劇団夢の遊眠社公演で初演されました。当時の吉之助は歌舞伎を集中
して見た時期で、この初演は見てませんが、この時代の雰囲気はもちろんよ
く覚えています。演劇評論家・内田洋一は当時の演劇状況について、こんな
ことを書いています。

『(1980年代後半)当時の観客の特徴は何かと言えば、何にでもよく笑
ったということである。笑うこと自体は人間の健全な働きであるはずだが、
若い世代を中心にした当時の観客のそれは無反応と同じことであったり、セ
リフの意味を無化する暴力性を持っていたりした。笑いは特権的であった。
笑うことを強迫観念のように自らに課す観客の反応は、明るさ、健康、清潔
を狂信的までに求め、反対に暗さ、病気(死)、不潔を排除する大衆の分裂
的な精神の象徴だったと今にして思えるのである。(中略)清水邦夫は80
年代は苦しい時代だったというようなことを後に語ったものだが、演劇の言
語はしばしば無重力状態にさらされるかのように、リアリティを喪失してい
った。』(内田洋一:現代日本戯曲大系・14の解説、三一書房)

野田秀樹はこの時代を生き残り、現代日本を代表する劇作家のひとりに成長
しました。芸術はそれが成立した時代の空気を取り込んで様式化するもので
すから、野田の演劇様式は、もちろん80年代のスタイルに根ざしたもので
す。ただし時代との親和性があまりに強過ぎると、時代に縛られてしまって
普遍性を得られません。良い作品が普遍性を持つということでは必ずしもな
く、時代との親和性が強くて時代に縛られるからこそ心に強く残る作品にな
る場合だってもちろんあります。多分そのような作品は時の流れのなかに埋
もれていくしかないでしょうが、作品として駄目ということにはなりません。
そうやって多くの作品が上演されては消えて行き、ほんのひとつまみの作品
だけが、時代を超えた名作として再演されるものになります。その辺は江戸
時代に上演された膨大な芝居が次第に二・三百程度のレパートリーに集約さ
れて行った現代歌舞伎の状況とまったく同じようなものです。


それにしても「観客が何にでもよく笑う」という指摘は、興味深いですねえ。
「贋作・桜の森の満開の下」の初演時の舞台映像を見ても、この時代の雰囲
気が濃厚に思い出されます。ただ同じ時期に歌舞伎にのめりこんでいた吉之
助、つまり遅いテンポの芝居に慣れていた吉之助の感覚からすると、野田演
劇によく云われる「疾走感」は、いささか空虚な気分にさせられたものでし
た。そこに空間があると、それを言葉で埋め尽くさないと気分が落ち着かな
いという感じなのです。言葉の質量感が軽い(良く云えば軽やか、悪く云え
ば薄っぺら)。歌舞伎だと10の言葉で埋めれば済むところを、20か25
の言葉を詰め込まないと空間が埋まらない、そのような言葉への信頼感の軽
さですねえ。役者の動きにもそれが云えます。上手端で台詞を半分言ったか
と思うと、次は下手端へバタバタと走って残りの台詞を言う。役者が何の意
味もなくジャンプしてみたり回転してみたりする。そこを捉えて待ってまし
たみたいに観客が笑う。動きが止まるのが恐ろしいみたいで、絶えず動き回
っていないと不安になる。一見すると、これは歌舞伎とは真反対のベクトル
の演劇世界のように思われます。イヤそれが悪いと言っているのではないの
で、誤解がないようにしてください。それが野田演劇のフォルムとして在る
ものだと云いたいのです。言葉を詰め込んでも詰め込んでも空間がまだ埋ま
らないという気持ちは、作家にとって苦しいものです。絶えずそのような不
安感がつきまとうのが、恐らく80年代の演劇が持つ雰囲気なのです。そし
て、それは野田演劇のフォルムでもあるのです。(一方、現代の歌舞伎役者
が10の言葉でちゃんと空間を埋め切れているのかと問われれば、これも疑
問とせざるを得ませんが、これを論じていると話題が別のところへ行ってし
まうので、ここでは置きます。)

ところで劇作家井上ひさしが野田秀樹に関してこんなことを書いていて、な
るほどと思いました。江戸期の歌舞伎や小説で戯作者が使用した技法を駆使
する作家が野田秀樹であると、井上は云うのです。

『諸芸術においては、作家の思想は魂の底で暴れ狂っているなにものかであ
って、それに名付けたり、それを言葉にするような代物ではありません。そ
の暴れ狂っているもなにものかを表現可能なものにするために、作家は技巧
という回線を敷き、その回線を通じて、そのなにものかを自分の外へ採り出
すのです。(中略)わたしには「現在という時間・空間に、どのような形で
住み込むのが、もっともよいのか」という切ない想いが彼の魂の底で暴れ狂
っているようにおもわれます。さまざまな時・空間を繋げて結び合わせ、作
家自身がその時・空間を生きながら、現在という時・空間にどう住み込むの
がよいかを、野田さんは必死に探し求めているようです。そのさまざまな時・
空間(これを「可能世界」と言い換えましょう)を、舞台の上に現前させる
ために、野田さんは 「見立て」「吹き寄せ」「名乗り」を多用するのです。』
(井上ひさし:「野田秀樹の三大技法」・「野獣降臨」新潮文庫版の解説)

野獣降臨(新潮文庫)・・井上ひさし解説を収録

「見立て」とは、あるものをそれと似た別のものになぞらえて見せること。
例えば、庭園に山を築いてこれを富士に見立てるとか、本歌取りなど、日本
には伝統的にあるものです。野田演劇に頻出する言葉遊びと云われるものが、
そうです。無関係ものを結びつけることで、それがストーリーが展開するた
めの材料となっていきます。

「吹き寄せ」とは、風が吹いていろんなものが一つ所に吹き寄せられる様。
例えば庭に様々な色の落ち葉が吹き寄せられる様で、秋の風情を表す。野
田演劇においては、一見関係なさそうなものを連想でかき集めながら、や
がてストーリーが形作られて行きます。

「名乗り」とは、例えば戦場に於いて武士が「やあやあ我こそは・・・」と
自分の名前や家柄・素性などを声高に告げること。歌舞伎においては、「何
の何某、実は何の某(それがし)」と云う形で、いつくもの世界が重ね合わ
されて行きます。 ひとりの人物が可能世界を行きつ戻りつするなかで、ふと
つひとつのものが全く別の意味合いを帯びて来ます。

日本のアニメやゲームの世界にも同じことが云えますが、こんな形で思わぬ
ところに日本芸能の伝統が息づいているものですねえ。 井上は「技法こそ
作家の思想の結晶だ」と主張します。見立てをする時に、何を取り上げて何
を捨てるか、取り上げたものを 何にどんな風に見立てるか、その選択に既に
作家の思想が反映します。どんなものを吹き寄せ、どのように関連付けるか、
その筋道に作家の思想が反映して来るのです。 本来は関連がない時代や事
象を見立てや吹き出しや名乗りによって、半ば無理やり重ねたり結び付けた
りすると、何らの矛盾や不自然さが生じる場合だってあるものですが、その
場合はそこに生じる違和感やギャップによって、対象が批評されることにな
ります。「贋作・桜の森の満開の下」の脚本を読むと、安吾の原作を綯い交
ぜにして、なるほど上手いこと見られるものに仕立てていくものだなあと感
心させられます。


8)クニを作る思い、モノを書く思い

『この「贋作・桜の森の満開の下」が描く世界は、ア二ミズムの崩壊だ。古
代人が持っていたアニミズムの魂が、一つの行為によって制度化されていく。
その行為こそが、クニを作るという思いである。(中略)一つの魂を宿すた
めには、沢山の魂が消されていっているのである。満開の桜の下に行くと、
今でも我々がその場所に何か魂でも宿っている気になるとすれば、それが消
えていった者たちの思いだ。この国が作られるために消えていった、古代人
のアニミズムでもある。それを私は、鬼と呼んでいる。』(野田秀樹・「魂
という文字の中に棲む鬼』・平成13年6月の新国立劇場での「贋作・桜の
森の満開の下」上演プログラム、なおこの時の演出は作者自身による。)

野田のこの文章では、「贋作・桜の森の満開の下」の主題がスッキリ整理さ
れて、芝居の構造がよく分かります。ただし、如何にも後から理論付けられ
た感がありますが。まあ初演から12年も経ってしまえば作品はもう他人が
書いたものと同然ですから、作者も自作を客観的に眺められるようになるも
のですし、多少の理論化も出て来ます。しかし、脚本を読むと、そのイメー
ジは若書きの戯曲らしくもっと錯綜したもので、未整理のまま揺れているよ
うに感じます。これは良い意味で言っています。だから若さゆえの体温の熱
さと勢いがあると思います。ともあれ、野田が云う、古代人が持っていたア
ニミズムの魂が、クニを作る過程のなかで制度化されて消されていくという
歴史的視点は、本作を読むうえでの指標になるものでしょう。

再びアモラルとインモラルということを考えます。アモラルとはモラルがま
ったくないこと。インモラルとはモラルに反することです。それではモラル
とは何かというと、モラルというのは、何が正しくて・何が正しくないか、
何が美しくて・何が醜いか、そういうことを分類する判断の基準となるもの
です。それが集団で共有されるものであるならば、それをモラル(道徳)と
呼ぶのです。だからクニを作る過程で制度化が進行していくなかで、必ずモ
ラルが生まれます。クニを維持するために何をすべきか、クニを機能させる
ために何か必要か、そういう枠組みが定められて、都合のいい者が取り立て
られて、都合の悪い者は排除されていきます。

だからモラルというものは、つねに体制の論理そのものです。排除される側
にだって自分たちの判断基準を持っているに違いない(それゆえ排除される
わけ)ですが、それはモラルと呼べません。そういうものは、悪とか鬼とか
魔とか呼びます。モラルと呼べるものは、やはりそれは体制のものです。だ
から体制が変われば、モラルもつねに変わります。時代が変われば、モラル
も変わります。因みに「体制」というのは60年代学生運動の用語でして、 
為政者・国家・社会制度・会社など既成組織の枠組みのことを云います。野
田も吉之助も遅れて生まれて学生運動に乗り切れなかった世代ですが、間接
的に強い影響を受けてはいます。上掲の野田の文章には、 若干それが出てい
るかも知れませんね。

「贋作・桜の森の満開の下」に登場するオオアマは、壬申の乱で新しい帝に
就いて、日本のクニの体制を定め、何が正しいくて・何が正しくないか、何
が美しくて・何が醜いか、そういう判断基準を定めました。オオアマは、こ
れに反対する者、あるいは馴染めない者たちを、オニとして排除しました。
そういうことが日本のクニが定まる過程で起こったことです。

これが「贋作・桜の森の満開の下」の大筋としてあるものですが、そう云う
風に日本のクニが中央集権国家として定まっていく過程で、大和朝廷の側と、
そこから排除されて抹殺されていく周辺の豪族たちという二元構図に強く読
んでしまうと、確かにスッパリ割り切れた感はあります。しかし、この読み
方だと、何だか取り落としたものが大きい感じもしてくるわけです。

例えば「贋作」大詰で故郷のヒダの者たちが逃げ回るのを、「見いつけた」
とひとつひとつ指差して、オオアマの手先に彼らを次々と殺させて、キャッ
キャと笑って喜んでいる夜長姫とは何者か?ということになると思います。
これを無邪気で可愛いと思える方は、幸せな方です。野田が云うのは、夜
長姫はアニミズムの側に立つということでしょうか?それとも体制側でしょ
うか?耳男が夜長姫を殺したということは、いったい何を意味するのか?こ
のような疑問は安吾の原作からは決して出て来ないことです。これは野田が
原作を壬申の乱に綯い交ぜしたことから出て来るわけです。注を付けますと、
綯い交ぜの趣向が悪いのではなく、本来関連がない事象を無理やり結び付け
れば、当然何らの矛盾や不自然さが生じてくるわけで、そのこと自体 も対象
への批評となるのです。

吉之助は安吾の原作分析のなかで、人が殺されて血が飛び散るのを見て「楽
しい、美しい」とキャッキャと笑って喜ぶ夜長姫の感じ方はアモラルで奇矯
であり、だから耳男は夜長姫を殺さねばならなかったと書きました。(第6
章を参照のこと)芸術家は脳裏にいろんなイメージが飛び交いウズ巻きます
ので、頭のなかでは「綺麗は汚い、汚いは綺麗」という状態なのです。これ
はもちろんマクベスの三人の魔女の言葉ですが、夜長姫の囁きが聞こえて来
るようですねえ。(これについては別稿「雑談・伝統芸能の動的な見方につ
いて」を参考にしていただきたい。)しかし、芸術家がこれを作品として具
現化するためには、「あれも良いが・これも良い・それも捨てがたい」とや
っている間は決して作品は出来ませんので、最終的にこれをひとつの形に収
斂(しゅうれん)せねばなりません。つまり何を取り、何を捨てるか、それ
を決めねばなりません。それを決める基準はその人が持つセンス或いは美学
とでも云うのでしょうが、それはちょうど為政者がクニを定めていく時のモ
ラルと同じような働きをしているわけです。「綺麗は汚い、汚いは綺麗」に
留まっていたら、作品は出来ないのです。だからモノを書くという 行為は、
何かのイメージを犠牲にしてこれを切り捨てて行く行為である。夜長姫を殺
した耳男は、野田でもあって、吉之助でもあるということですねえ。

そうするとクニを作るという思いと、モノを書くという思いというのは、ど
こか似たようなところがある(つまりそこに見立ての根拠があるわけで)と
いうことなのです。しかし、それじゃあア二ミズムの象徴が夜長姫だという
ことになるかと問われれば、そういうことになるとは吉之助は思われません。
これは何となくしっくり来ません。だからそこは矛盾としてあるのです。

ですからもう一度繰り返しますが、「贋作・桜の森の満開の下」を日本のク
ニが中央集権国家として定まっていく過程で、大和朝廷の側と、そこから排
除されて抹殺されていく周辺の豪族たちという二元構図にかつきり明確に読
むことは、あまりしない方が宜しい。「贋作」は天皇制の欺瞞をパロディに
しているとするような読み方が、一番いけません。演出家ならば仕方がない
ですが、芝居を見る観客としては、しない方が宜しい。批評家としては難し
いところですが、何通りでも切り口が見い出せると云うことだから、ズルい
ようですが、やはり、しない方が宜しい。矛盾は矛盾のままに置いておく方
が宜しいのです。


9)演劇はアモラルを描くことが不得意である

第5章で満開の桜について考察をした時、吉之助は「やすらえ、花や」と歌
う平安期の貴族の散る花を惜しむ気持ちから、昭和期の梶井基次郎の「桜の
樹の下には屍体が埋まっている」という感性に至るためには、発想の転換点
が必要となる、その転換点となったのは江戸期の歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成
寺」が持つ明晰さであると書きました。この認識はとても重要なので、もう
一度、ここで取り上げます。

「娘道成寺」では、美しく可愛い白拍子が実は暗い情念を持つ清姫の霊であ
るという前提があります。観客はそのことを知っていますが、そこから意識
的に目を背けて、今この瞬間は、白拍子の踊りの、理屈のない世界の馬鹿々
々しさに浸ろうとします。つまり、これはインモラルなお楽しみであるので
す。このことは、いったい何を意味するのでしょうか。それは歌舞伎的な感
性とはインモラルだと云うことを示しているのです。

例えば「七段目」・一力茶屋で遊ぶ由良助を考えてみてください。由良助は
仇討ちの大望を秘めて、敵の目を欺くために祇園に遊びます。主君を裏切っ
ているというインモラルなお楽しみは、茶屋場遊びを一層華やかなものにし
ます。「熊谷陣屋」をみてください。熊谷次郎直実は我が子小次郎を敦盛卿
の身替りにします。人を殺すということはもちろん非道な行為ですが、我が
子を殺すとなると、それは家を潰すことにもなり、倫理的にも最悪の行為と
云えます。ところがこれが主君の為だとなると、忠義の行為であることの崇
高さがいや増すということになるのです。 つまりこれはインモラルな行為な
のです。そう考えると歌舞伎に登場するすべてのドラマ、吉之助がかぶき的
心情の発露であるとするドラマは、すべて 相反するふたつの要素の間で引き
裂かれるインモラルな行為なのです。

話を歌舞伎に限定したくないので、更に話を続けますが、このようなインモ
ラルな感性は、歌舞伎以降の演劇が本質的に持つものだということを申し上
げておきます。つまり演劇そのものがインモラルな感性を持つのです。もち
ろん新劇もアングラ芝居も、現代のものはみんなそうです。モラルと、それ
に反するものを同時に持っていて、その間で揺れているから、インモラルで
す。そこに二元構図があるのです。それは演劇というものが、どんな側面か
らでも二元構図になっていることから来ます。対話も二元構図、舞台の左右・
上下も、男と女も、主役と脇役、善と悪も、為政者と排除される者という図
式もみんな二元構図・・・二元構図からなかなか抜けられないのが演劇です。
 これもインモラル的構図だと云えます。

一方、安吾原作の分析で、「桜の森の満開の下」も「夜長姫と耳男」も、ラ
スト・シーンを安吾はアモラルな視点で書いたということを考察しました。
読者をポーンと突き放したところから来る静寂さ、絶対の孤独という感覚、
むごたらしいこと、救いがないということ、これはアモラルな感覚です。

『最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の
救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じよ
うに、救いがないということ自体が救いであります。私は文学のふるさと、
或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、
そうも思います。』(坂口安吾・「文学のふるさと」・昭和16年7月)

第5章でちょっと触れましたが、安吾の 原作も戦後昭和期の作品である以
上、現代のインモラルな感性から決して逃れられません。しかし、安吾は用
心深くそのような要素を排除しようと努めながら、 原作を書いています。満
開の桜の森は言いようのない恐ろしさを主人公(盗賊あるいは耳男)に感じ
させます。しかし、彼らにはその恐ろしさの正体が分かりません。ただ恐ろ
しいだけで、彼らは恐ろしさの正体が明確に見えていません。主人公が愛ゆ
えにひたすら奉仕し尽くしてきた女が、桜の森で突然鬼の形相に変貌して、
恐怖に駆られた主人公は思わず彼女を殺してしまいます。逆に云えば女の変
貌はそれほどまでに彼にとって予想外のことでした。インモラルなものが鬼
女の面となって、最後の最後に現れます。ここからモラルが始まるのです。

一方、「贋作・桜の森の満開の下」では、冒頭の桜の森のなかで耳男は師匠
であるヒダのタクミを殺害してしまいます。さらにマナコが殺人を犯します。
これはどちらも原作にはない設定ですが、これは結構重要な改変です。ここ
で梶井基次郎のインモラルな感性が尻尾を出してしまっています。「桜の森
には自分が殺した師匠の屍体が埋まっている」ならば、耳男は再び桜の森に
入ることを警戒せねばならないはずです。それなのに「贋作」では無警戒の
まま耳男は夜長姫を連れて桜の森に入ります。ここも気を付けねばならない
箇所です。原作を読むと、「このヒメを殺さなければ、チャチな人間世界は
もたないとオレは思った」とあります。ヒメに対する恐怖が心底にあって、
耳男は引き寄せられるが如く夜長姫を連れて桜の森に入ったと、原作に沿う
ならばそう解釈したいところです。これなら夜長姫が鬼女の面に変貌する結
末が、流れのなかで予想される気がします。しかし、「贋作」ではこの部分
を野田は「ヒメを、この青空から連れ出さなくては、このチャチな人間世界
はもたない」と変えていますから、耳男は夜長姫を殺すことを全然考えてい
ないわけです。この改変も重要です。そもそも「贋作」では、桜の森にいつ
かそこに戻っていきたい懐かしの故郷のような響きがありますねえ。これで
 桜の森で耳男が夜長姫を殺すことの意味が弱くされています。桜の森でオオ
 アマの手先がヒダの民を殺戮する件があるからこれで補われていますが、こ
 こがインモラルな場面で、対する耳男が夜長姫を殺す件は甘い感じに仕立て
 られてます。それにしても耳男の師匠殺しはあまり機能していないような・・
 ・まああまり細かいことは考えないことにしましょう。そういうことは矛盾
 のままに置いておくのが良いのです。と云うよりも、原作世界にインモラル
 な要素が絡んでくるギャップを楽しまなければなりません。「贋作」は、大
 筋ではなかなか上手く書けているんです。吉之助が思うには、単純に安吾の
 原作をなぞっているだけなら、芝居はこういう風にならなかったでしょう。
 これは野田が原作に壬申の乱を絡めて、クニの成立とアニミズムの崩壊とい
 う二元構図の視点を綯い交ぜしたから、こういうことになっています。ここ
 では、ただ野田の「贋作・桜の森の満開の下」が二元構図で書かれていて、
 本質的にインモラルな視点であることを指摘しておきます。

誤解ないように付け加えておくと、吉之助はそれが間違いだと言っているの
ではないのです。これは「贋作」なのですから、野田が書きたいように自分
の戯曲を書けば良いことです。インモラルの感性の所産であることが野田演
劇のフォルムだと思いますし、インモラルでなければ現代演劇ではあり得
ません。

ですから安吾が原作で描きたかったアモラルな感覚は、実は演劇が本質的に
持つインモラルな感性と、本来は微妙にそぐわないものだということです。
演劇は、そういうものを描くのを、もっとも不得意とするところです。二元
構図で対立した概念を、色合いの配合で仕分けて表すというのならば、出来
ます。役者に技術があれば、その挟間で揺れる感覚も出せます。出来るのは、
そこまでです。しかし、それでは本当はアモラルではないのです。二元構図
に縛られているから、それはあくまでインモラルです。野田は、そういう本
来そぐわない、アモラルな感覚を関連付けて、綯い交ぜにして、見立て・吹
き寄せ・名乗りの伝統の作劇技法で、芝居に仕立てようとしているのです。
そういうことを承知したうえで「贋作・桜の森の満開の下」を楽しめば宜し
いのではないかと思います。綯い交ぜというのは、インモラルなお楽しみな
のですね。


(この稿つづく)


*本号に関連sるサイトの記事
雑談:伝統芸能の動的な見方について
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/dentoh100.htm


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