歌舞伎素人講釈

メルマガ「歌舞伎素人講釈」第457号


カテゴリー: 2017年10月01日
*******************平成29年10月1日発行****
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    メルマガ「歌舞伎素人講釈」  第457号
            連動ホームページ: http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/ 
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こんにちは、吉之助です。すっかり秋らしくなりました。

歌舞伎座は本日が初日ですが、インド神話と合体したあの新作歌舞伎「マハ
バーラタ戦記」とは、どんなものなのでしょうかね。評判が楽しみです。

さて本号でお届けするのは、先月(8月)歌舞伎座・納涼歌舞伎で上演された
野田秀樹の「野田版・桜の森の満開の下」の観劇随想の第2回目です。

吉之助の論考は長いものが多いですが、自分で云うのも何ですが、結果的に
長くなるものは大抵出来が良いです。この「野田版・桜の森の満開の下」論
も長くなりそうな気配です。本稿はサイトで連載中ですが、まだ完結してい
ませんが、先が気になる方は、サイトの方をチェックしてください。

サイトの方には、九月歌舞伎座の観劇随想もいくつかアップしています。


ーーー<お知らせ>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

○お知らせ:神奈川大学 生涯学習・エクステンション講座で
吉之助が「源氏物語」と歌舞伎についてお話をいたします。

『源氏物語』と日本の伝統文化 2回講座

2017年10月11日(水)(第1回)
     10月25日(水)(第2回)
     それぞれ13:00~14:30

場所:神奈川大学 KUポートスクエア(みなとみらい線みなとみらい駅)

詳細については神奈川大学の募集要項をご覧いただきまして
お申し込みください。よろしくお願いします。

http://www.ku-portsquare.jp/site/course/detail/2069/

(上のリンクから、講座の紹介ページに直接入れます。)

1)吉之助が、神奈川大学 生涯学習講座に登場し、「源氏物語」と歌舞伎
についてお話をすることになりました。

2)今回の、講座名「『源氏物語』と日本の伝統文化」は、2回講座です。

第1回目(10月11日)は、源氏物語研究がご専門の、宇留田初美先生の
担当で、「源氏物語」に登場する舞楽についてのお話をしてくださいます。
「源氏物語」のなかで光源氏が舞楽・青海波(せいがいは)の舞を舞う場面
は、物語のなかでも特に印象的なものです。

第2回目(10月25日)を吉之助が担当して、歌舞伎になった「源氏物語」
ということでお話をいたします。

3)「源氏物語」はどこでも人気で、読解の講座は多いですが、「源氏物語」
に関連した伝統芸能についての講座となるとあまりないように思います。そ
の点でもちょっと変わった切り口から「源氏物語」を楽しめるのではないか
と思っています。

4)ご存じの通り、「源氏物語」からの直接的な劇化は、昭和26年3月歌
舞伎座の、舟橋聖一脚色の「源氏物語」、あの「花の海老さま」・十一代目
団十郎の光源氏による上演が初めてのことでした。だから歌舞伎と「源氏物
語」は、あまり縁が深いとは言えないわけです。江戸時代の戯作者の感性は、
「源氏物語」を上手く劇化することが出来ませんでした。むしろ「源氏物語」
のパロディである、柳亭種彦の「偐紫田舎源氏」(にせむらさきいなかげん
じ)との関連から読まねばなりませんが、それもこれもそれなりの理由があ
ってのことなのです。いつもとちょっと違う視点から、「源氏物語」を眺め
てみるのも、興味深いことではないでしょうか。

5)受講料・その他詳細については、神奈川大学の生涯学習講座をご覧いた
だきまして、神奈川大学のサイトからお申込みをお願いいたします。

神奈川大学の生涯学習講座(トップページ)
http://www.ku-portsquare.jp/
この場合は「源氏物語」と入れて検索してください。


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○お知らせ:吉之助3冊目の書籍本が出ました。。

お手にとってご覧いただき、是非お買い求めください。

「武智鉄二・山本吉之助編 歌舞伎素人講釈」

すべて「武智全集」未収録の論考です。吉之助が解説を付しました。
伝統とは何か、古典とは何かを考えるのに、最適な入門書です。

アルファベータブックスより全国有名書店にて発売中
価格:2,916円(税込み)

アマゾンへは下記から購入できます。
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ーーー<今回の話題>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

○時代錯誤桜幻影(ときあやまりてさくらのまぼろし)
                 ~「野田版・桜の森の満開の下」論    第2回目

平成29年8月歌舞伎座:「野田版・桜の森の満開の下」

中村勘九郎(耳男)、中村七之助(夜長姫)、市川染五郎(オオアマ)他

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4)桜の幻影

「贋作・桜の森の満開の下」の主筋は「夜長姫と耳男」に負っており、「桜
の森の満開の下」の満開の桜は発端と結末のイメージに出て来るのみですが、
とても印象的に使われています。この小説は安吾作品のなかでも抜きん出て
人気が高いもので、気位が高く残酷な女房の歓心を買うために命をすり減ら
して奉仕する下賤な男という構図です。女房に要求されて、主人公(盗賊)
は次々と人を殺したり血なまぐさい残酷なことをします。まず安吾の原作の
桜の森の場面を見てみます。盗賊が女房を殺してしまった直後の描写です。

『そこは桜の森のちょうどまんなかのあたりでした。四方の涯は花にかくれ
て奥が見えませんでした。日頃のような怖れや不安は消えていました。花の
涯から吹きよせる冷めたい風もありません。ただひっそりと、そしてひそひ
そと、花びらが散りつづけているばかりでした。彼は始めて桜の森の満開の
下に坐っていました。いつまでもそこに坐っていることができます。彼はも
う帰るところがないのですから。桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分り
ません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、
男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありま
した。』(坂口安吾・「桜の森の満開の下」・昭和22年)

ここに主人公の「孤独」という言葉が出て来ます。このことを考えるために
は、安吾の評論「文学のふるさと」(昭和16年)を参照せねばなりません。
安吾は、生存の孤独とはむごたらしく、救いのないもの、モラルがないとい
うこと自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救い
であるということを云っています。これは安吾が「堕落論」(昭和21年)
のなかで「人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ」と云
っているのに通じます。ただし、もう少し先を読まねばなりません。

『生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、
救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたら
しく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救い
がない。我々の現身(うつしみ)は、道に迷えば、救いの家を予期して歩く
ことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家
を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがない
ということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないという
こと自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いで
あります。私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。
文学はここから始まる――私は、そうも思います。アモラルな、この突き放
した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このよう
な物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりか
ごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないか
ら。……』(坂口安吾・「文学のふるさと」・昭和16年)

安吾の云いたいことは、生存の孤独とはむごたらしく、救いのないもので、
我々のふるさとなんだけれども、人はそこにとどまっていられるものではな
い、堕ち切ったところから始まるのだ、大人の仕事は、決してふるさとへ帰
ることではないということです。「堕落論」もそのような意図で書かれてい
るものです。だから盗賊は女房を殺さなければならなかったと、吉之助は思
うのですがねえ。

女の要求にひたすら奉仕する男のマゾヒズムとか、残酷な女のなかに際立つ
聖性という読み方(この作品ではそのような読み方が多いようです)は、そ
れはそれでひとつの切り口として理解はできますが、そのような読み方は常
に他者である「女」が意識されており、安吾が書いている「彼自らが孤独自
体でありました」ということにならないと思います。主人公(盗賊)は女房
を殺したから孤独になったのではありません。彼はずっと以前から孤独であ
ったのです。桜の森で女房を殺した時に、始めから自分が孤独であったこと
に初めて気が付いたのです。満開の桜の花が、彼にそのことを教えてくれた
のです。

まず安吾が云う「アモラル」ということ、モラルがないということを正しく
理解する必要があります。アモラルというのは、善とか悪という倫理基準が
まるでないことを云います。これに対して「インモラル」にはまず善とか悪
という倫理基準があり、これが悪い行為だと承知して彼は悪いことをするの
です。善を裏切ることが倒錯した淫靡なお楽しみを彼に提供することになる、
これがインモラルです。ですから女の要求に奉仕する男のマゾヒズムとか、
女のなかの残酷性と聖性の二面性という読み方は、まあそれはそれとしても、
そこに倫理基準を持った見方であって、小説をアモラルな視点で読んでいな
いことになります。

盗賊の女房は感じるがままに振舞い盗賊に次々といろんな要求をしますが、
彼女はアモラルな女ですから、そこに善とか悪という倫理基準がまるでない
のです。したがって女房のなかに、残虐性も聖性もないことになります。盗
賊は女房の歓心を得るためにヒイヒイ云って奉仕していますが、その時 、
彼はそれが悪逆なことと思ってやっていたわけではないのです。つまり盗賊
もまたアモラルであったわけです。桜の森で女房を殺した時に、彼はそうい
う自分に初めて気が付きます。満開の桜の花が、彼にそのことを教えてくれ
たのです。安吾は「文学はここから始まる」と書いていますが、これはモラ
ルの始まりでもあります。

「桜の森の満開の下」の創作動機については安吾に原体験があったことが知
られています。昭和20年3月10日に東京大空襲がありました。その年の
春も上野の山はやっぱり桜が満開でしたが、戦時下のこともあって、上野公
園にはひと一人もおらず、ひっそりとした桜の満開の森にただ風のなかに花
びらだけが舞っているという光景であったそうです。坂口安吾は この光景に
大変ショックを受けたようです。

『花見のひとの一人いない満開の桜の森は、情緒などはどこにもなく、およ
そ人間の気と絶縁した冷たさがみなぎっていて、ふと気がつくと、にわかに
逃げ出したくなるような静寂が張り詰めているのであった。ある謡曲に子を
失って発狂した母が子をたずねて旅に出て狂い死にする物語があるが、まさ
に花見の人の姿のない桜の花盛りの下というものは、その物語にふさわしい
狂的な冷たさがみなぎっているような感にうたれた。』(坂口安吾:「明日
は天気になれ」~「桜の花盛り」・昭和28年)

昭和20年空襲の後に満開の桜を見た或る方が「この時ほど自分は桜の花の
美しさを呪ったことはない」と言うのを聞いたことがあります。すぐ傍で何
万という人が焼け死んだのに、そんなこととまったく関係がなく、春になる
といつものようにまた桜が満開になって一斉に生を謳歌するのです。それが
どれほどアモラルな光景に見えたことでしょうか。


5)桜の幻影・続き

平安の昔、鎮花祭(はなしずめ)の時に歌うお囃子では、「やすらへ。花や、
やすらへ。花や」と言いました。「やすらう」は躊躇するの意味で、休息す
ることを「やすらう」と言うのはその転化です。つまり、このお囃子は「そ
のままでをれ。花よ」、「じっとして居よ、花よ」と呼びかけたものです。 
そう歌い掛けるのは、花が動き始めるのを恐れているからです。一旦動き出
したら花は散り始めます。日本人の、散る花を惜しむ感情がそこから派生し
てきます。

一方、昭和の梶井基次郎は、「桜の樹の下には屍体が埋まっている」(「桜
の樹の下には」・昭和6年)と書きました。梶井は桜のなかに潜む何か得体
の知れないものの存在を感じ取っています。それは、人間は無意識という・
自分ではコントロールできない暗い情念に突き動かされている人形であると
いう、20世紀初頭の世界的芸術思潮に重なっています。しかし、平安期の
貴族の散る花を惜しむ気持ちから「桜の樹の下には屍体が埋まっている」と
いう感性が一気に引き出されるわけではありません。そうなるには発想の転
換点が必要です。転換点にあるのは江戸の歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成寺」が
持つ明晰さであったと吉之助は考えています。(これについては別稿「やす
らえ花や」を参照ください。)

「娘道成寺」の、花のほかには松ばかり・・という桜満開の舞台面は、それ
だけで観客の心をパーッと明るくします。そのような満開の桜の明るさは、
実は江戸の民衆の感性の明晰さから来 るのです。と同時に民衆は、桜の美
しさのなかに何か得体の知れない不気味さを感じてもいます。江戸の民衆は、
白拍子の踊りの、理屈のない世界の馬鹿々々しさに浸っていたい。美しく可
愛い白拍子が蛇体に変身するなんてことは、考えたくないのです。ところが
鐘の上がる段になって、何だか恐怖がどこからか湧き上がって来ます。鐘が
上がるその瞬間にそれまで忘れていた「道成寺」伝説が舞台に蘇って来ます。
これが「娘道成寺」のドラマ構造です。

つまり「娘道成寺」には、美しく可愛い白拍子が暗い情念を持つ清姫の霊で
あるという前提があり、しかし、観客はそのことから意識的に背を向けて、
今この瞬間は、白拍子の踊りの、理屈のない世界の馬鹿々々しさに浸ってい
たいのです。だからこれはインモラルなお楽しみです。「娘道成寺」が持つ
異様な明るさは、そこから来ます。満開の桜の樹の下でのどんちゃん騒ぎは
江戸時代に始まったそうですが、「娘道成寺」を見 れば、それが確かに日
本の伝統的な感性のうえに立つものであることも分かるし、江戸期の民衆の
なかで花見の宴会の風習が起こった理由もそこから見えて来ます。

ところで「桜の森の満開の下」冒頭部をご覧ください。これが小説の書き出
しか?真面目に書いてるのか?と思うような書き出しです。

『桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景
だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘か
と申しますと、桜の花の下へ人がより集って酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩し
て、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶
景だなどとは誰も思いませんでした。近頃は桜の花の下といえば人間がより
集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいます
が、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、能にも、
さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開
の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びら
に埋まってしまう(このところ小生の蛇足)という話もあり、桜の林の花の
下に人の姿がなければ怖しいばかりです。』(坂口安吾:「桜の森の満開の
下」・昭和22年)

安吾が冒頭でこういうことをわざわざ書くのは、小説の背景が、江戸の満開
の桜の下のどんちゃん騒ぎの時代ではないからです。つまり小説が江戸のイ
ンモラルな桜の見方に立つものではないと、あらかじめ釘を刺しているので
す。前項 で論じた通り、安吾が小説で書いた盗賊と女房のストーリーは、
アモラルなものです。そこに文学のふるさとがあると安吾は信じているから
です。

しかし、ここから話がややこしいことになりますが、安吾が「桜の森の満開
の下」をアモラルな視点で書いたつもりでも、それは昭和22年に書かれた
ものとして、作品は成立したその時代から無縁であることは決してあり得な
いのです。つまり作品はインモラルな読まれ方から決して逃れられないので
す。そのことに安吾が気が付かないはずがありません。だから安吾は小説冒
頭にああいうことを書いたのです。 しかし、「桜の森の満開の下」はどう
しても、歌舞伎の「娘道成寺」や梶井の「桜の樹の下には」 も踏まえた伝
統の桜の見方で読まれてしまいます。「文学のふるさと」ではなく、もはや
「文学」として読まれるのです。これは必ずしも読み方が間違っているわけ
ではありません。これはそうならざるを得ないでしょう。だから「桜の森の
満開の下」という小説は、重層的な読み方とでも云いましょうか、アモラル
な視点で書かれたことを強く意識しつつ、これをインモラルに読むのが正し
い読み方であるかも知れません。アモラルとインモラルの配合が難しいとこ
ろですけどね。

太平洋戦争での空襲で焦土化した日本の光景を知らない世代(吉之助もその
一人ですが)にとって、アモラルな世界は想像を絶します。 我々は「桜の
森の満開の下」や「夜長姫と耳男」を、どうしてもインモラルに読んでしま
いがちです。しかし、そこに是非アモラルな視点を加えて読んでみれば如何
でしょうかね。そうすれば遠く「ふるさと」を想うことが出来ます。そうす
れば日本の桜の伝統を踏まえた重層的な読み方に出来ると思います。


6)夜長姫の最後の言葉

「夜長姫と耳男」は、不思議な小説だと思います。最後の場面(耳男が夜長
姫を刺し殺す)が妙に清冽な静けさを持っています。しかし、ポーンと突き
放された感覚があって、吉之助にとっては 、あまり居心地が良くありませ
ん。気になる小説ですが、個人的に好きな小説とは言い難いですねえ。この
結末の感覚については評論「文学のふるさと」が大きな関連を持っています
が、

『最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の
救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じよ
うに、救いがないということ自体が救いであります。私は文学のふるさと、
或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、
そうも思います。アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというので
はありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しま
せん。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事
は、決してふるさとへ帰ることではないから。……』(坂口安吾・「文学の
ふるさと」・昭和16年7月)

という文章からすると、安吾自身も、このアモラルな、読者を突き放した物
語を高く評価しないということになるかなと思います。それにしても、世間
では安吾作品のなかでも「夜長姫と耳男」の人気が飛びぬけて高いようです。
その理由は、刺殺された時の夜長姫が、耳男ににっこり笑って云う最後の言
葉にあると思います。

「好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロク
がダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなの
よ。いつも天井に蛇を吊して、いま私を殺したように立派な仕事をして……」
(坂口安吾・「夜長姫と耳男」・昭和27年6月)

夜長姫の最後の言葉を、最後に夜長姫が耳男を認めてくれたとか、あるいは
鬼として放逐された耳男の精神の救済であるかのように、ロマンティックに
捉える向きが多いようです。しかし、そのように読むと、安吾が「文学のふ
るさと」で言うような、突き放した感覚、絶対の孤独、絶対の悲しみという
ものが、あまり浮かんでこないと思います 。「桜の森の満開の下」の主人公
(盗賊)と同様に、耳男は夜長姫を殺したから孤独になったのではありませ
ん。彼はずっと以前から孤独であったのです。

吉之助はこの夜長姫の言葉は、なかなか曲者であると思っています。夜長姫
の言葉は深遠なことを言っているようだけれど、すごくロマンティックに甘
く響くけれど、これはやっぱり奇矯な考え方なのです。これは夜長姫が死ぬ
前に耳男に掛けた最後の呪いの言葉で す。耳男がこれから大人になってい
くのならば、これは否定されなければならぬものだと思います。そもそも夜
長姫が云うことは、ちょうど泉鏡花の戯曲「海神別荘」の主人公・公子が八
百屋お七の火あぶりの処刑の場面に目を輝かせて言う台詞と、まったく同じ
感じ響きがします。(別稿「超自我の奇蹟」を参照ください。)

『それはお七という娘でしょう。私は大好きな女なんです。ご覧なさい。何
処に当人が嘆き哀しみなどしたのですか。人に惜しまれ哀れがられて、女そ
れ自身は大満足で、自若として火に焼かれた。得意想うべしではないのです
か。何故それが刑罰なんだね。(中略)娘は幸福(しあわせ)ではないので
すか。火も水も、火は虹となり、水は滝となって、彼(か)の生命(せいめ
い)を飾ったのです。抜き身の槍の刑罰が馬の左右に、その誉れを輝かすと
同一(おんなじ)に。」(泉鏡花:「海神別荘)

文楽の八百屋お七の処刑の場面は、残酷さ無惨さを描写していることで異形
であり、人間の心情の真実を描写していることで崇高であり、それゆえにひ
たすらに美しいということは、 もちろんあり得ることです。しかし、それは
インモラルな見方です。人間の見方だと云っても良いです。一方、海の神様
である公子はそこに美しさだけを見て喜んでいます。それゆえ公子の見てい
る美しさはアモラルなものであり、そこに異形のきざしも崇高のきざしもあ
りません。単にそれは美しいだけです。したがって海神である公子の感じ方
は、人間から見れば奇矯であり滑稽なものにしか 映りません。

公子と同じく、夜長姫の言動・行動も、一貫してアモラルで、奇矯です。人
が殺されるのを見てキャッキャと歓び、血がパッと飛び散る光景に美しさを
見ています。最後の夜長姫の「好きなものは咒うか殺すか争うかしなければ
ならないのよ」という言葉も、優しい女神のような響きをしていながら、実
は奇矯で危険なささやきなのです。人間であるならば、これは否定せねばな
らないテーゼです。

随分と昔、若い頃にこの小説を読んだ吉之助は、夜長姫を刺し殺してしまっ
た耳男は、これ以後は像を彫ることができなくなったと解釈しました。これ
は吉之助の評論「文学のふるさと」の理解から引き出されるものです。「む
ごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いである」
という認識は、非常に厳しいものです。この突き放した感覚に、普通の人間
は耐えられません。耳男は死にはしないでしょうが、もう芸術作品を作るこ
とは有り得ないだろうと感じました。

「夜長姫と耳男」からは、政治的或いは歴史的な要素をほとんど感じ取れま
せん。ストーリーは耳男の内面世界だけを追っています。そこで吉之助は、
これは野田から教えられたことですが、飛騨三作と云うべき「飛騨・高山の
抹殺」と「飛騨の顔」を強く関連付けたうえで、改めて「夜長姫と耳男」を
読み直してみることにしま した。実は、これには多少の飛躍が必要で、ちょ
っと力が要ることです。つまり「夜長姫と耳男」から直接的に引き出される
読み方ではないのですが、しかし、野田の「贋作・桜の森の満開の下」の
解析のためにはとても役に立つと思うので、敢えてそれをやってみると、耳
男のその後については、もう少し別の解釈があり得るかもと思えてきました。
耳男は生き続け、これ以後も作品を作り続けたであろう。ただし歴史から意
識的に背を向けた工芸者(職人)として、名声を得ることを拒否し、淡々と
生き続けたであろう、耳男はまことのヒダのタクミになったということにな
ります。吉之助は、今はこの解釈がとても気に入っています。そうなると夜
長姫の最後の言葉を、どのように解すべきでしょうか。

ここで吉之助は、エドガー・アラン・ポーの短編「ウィリアム・ウィルソン」
(1839年)の最後を思い出すのですが。主人公(ウィリアム・ウィルソ
ン)が、自分に しつこく付きまとう嫌な奴(彼の名前も同じくウィリアム・
ウィルソン)を殺すのですが、最後にそいつがこう云うのです。

「お前は勝ったのだ。俺は降参する。だが、これから先は、お前も死んだの
だ、――この世に 対して、天国に対して、また希望に 対して死んだんだぞ!
俺のなかにお前は生きていたのだ。――そして、俺の死で、お前がどんなに
まったく自分を殺してしまったかということを、お前自身のものであるこの
姿でよく見ろ」

だから吉之助は、夜長姫の最後の言葉を甘くロマンティックな響きに受け取
れないのです。これは原初の世界に耳男を引き戻そうとする、とても危険で
暗い誘惑に思えます。だから耳男は、「好きなものは咒うか殺すか争うかし
て勝ち取る」という姿勢を取ることは、もう止めたと思います。正確には、
もう出来なくなったと思います。なぜならば耳男は、自分の内にある夜長姫
を殺したからです。アモラルな世界を否定して、耳男は新たな世界へ踏み出
すことになるのです。ここから芸術が始まり、或いは新たなモラルが始まる
ことになるでしょう。

安吾の歴史観に立って、ヒダの歴史のうえに耳男を重ねて「夜長姫と耳男」
を読み直すと、芸術家として賞賛される権利を或る政治権力によって奪い取
られた者こそ耳男なのであり、耳男は名声を拒否する反骨のポーズを自ら取
ることによって、自分はもう疎外された者ではないと宣言するのです。これ
がヒダのタクミの姿だということになります。これでやっと「夜長姫と耳男」
が大衆に行き着いたことになりますね。

『作者の名が考えられないということは、芸術を生む母胎としてはこの上も
ない清浄な母胎でしょう。彼らは自分の仕事に不満か満足のいずれかを味い
つつ作り捨てていった。その出来栄えに自ら満足することが生きがいであっ
た。こういう境地から名工が生れ育った場合、その作品は「一ツのチリすら
もとどめない」ものになるでしょう。ヒダには現にそういう作品があるので
す。そして作者に名がない如く、その作品の存在すらも殆ど知られておりま
せん。作者の名が必要でない如く、その作品が世に知られて、国宝になる、
というような考えを起す気風がヒダにはなかった。名匠たちはわが村や町の
必要に応じて寺を作ったり仏像を作ったり細工物を彫ったりして必要をみた
してきた。必要に応じて作られたものが、今も昔ながらにその必要の役を果
しているだけのことで、それがその必要以上の世間的な折紙をもとめるよう
な考えが、作者同様に土地の人の気風にもなかったのである。』(坂口安吾:
「飛騨の顔」・(昭和26年9月)

安吾はヒダのタクミの作る作品を、その素晴らしさにおいて国宝その他の名
品と何ら変わりはないが、ヒダのタクミの作る作品は「これが芸術だ」とい
う顔をしていないと云っています。 この場合、芸術家と呼ばれる者は、為
政者御用達の、したり顔した工芸者のことを指すとしてもよろしいでしょう。

恐らく安吾は、ヒダのタクミに「我々小説家もかく在りたい」という理想を
見ているのです。安吾は「これが芸術だ」という顔をしていない小説を書き
たかったに違いありません。実質(内容)こそが問題なのです。しかし、ヒ
ダのタクミもそのような境地に容易に至ったわけではないことを、安吾はよ
く知っています。それが「飛騨・高山の抹殺」で延べられていることです。
ヒダの長い苦難の歴史の果てにヒダのタクミの境地があった(と安吾は思っ
ている)。だから自分(安吾)のような凡人が簡単にヒダのタクミの境地に
至ったわけではないことも、安吾自身がよく分かっています。だから今日も
明日も、小説家として俺は、金のために生活のために詰まらぬ文章を書き続
けて行くだろうな、結局、俺は売文家として堕ちるしかないのかな、それで
もヒダのタクミのような純な志はちょっとだけでも持っていたいものだねえ
と、これは安吾が「堕落論」(昭和21年4月)で書いたことと相通じると
思います。安吾の書いていることは一貫してブレがないと吉之助は思います。


(この稿つづく)

本メルマガに関連するサイトの記事
「やすらえ、花や」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/butai83.htm
「超自我の奇蹟」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/butai37.htm



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■読者数32万部超、日本一の個人メルマガ(まぐまぐ総合ランキング調べ) ■9年連続で年収1億円以上になり、70か国以上を旅行して、 190平方メートルの豪邸に住んで、スーパーカーに乗れるようになり、 さらに、著書は、日本を代表する超有名人2人に帯を書いてもらい、 累計50万部のベストセラーとなった、現在香港在住の川島和正が、 最新のビジネスノウハウ、自己啓発ノウハウ、健康ノウハウ、恋愛ノウハウ さらに「今チェックしておくべき情報リスト」などを配信中!
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ダメおやじの全財産をかけた崖っぷちFX通信
【1日に数万人が熟読する人気FXブログのメルマガ版】 相場歴30年以上のダメおやじがFXノウハウを大公開! 毎朝配信!毎日の経済指標情報や攻略法を無料で解説しています。 ●損切りがうまくできない、利食いが浅い ●ポジポジ病(ポジションを不要に持ってしまう) ●コツコツドカーン(小さく勝っても大きく負ける) ●エントリータイミングわからない ●メンタル面が弱い このようなお悩みがあれば購読してみてください。 FX初心者から経験者まで、FXの悩みをこのメルマガで解消します。 期間限定でメルマガ内で数万円相当分のFX情報商材をプレゼント中!
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僕は『絶対倒産する』と言われたOWNDAYSの社長になった。
売上20億,負債14億,赤字2億『絶対倒産する』と言われ、メガネ業界内ではただの質の悪い安売りチェーンと馬鹿にされ続けていたOWNDAYS(オンデーズ)を30歳の時に買収し社長に就任。その後、10年間で奇跡のV字回復を遂げて、売上150億,世界10カ国に進出するまで・・、みたいな巷によくある再生物語。半分ノンフィクション。半分はフィクション。いつまで、どこまで書き続けるかはまだ未定です。 https://www.owndays.com Twitter:https://twitter.com/shuji7771 blog:https://ameblo.jp/shuji7777/
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今週のおすすめ!メルマガ3選

石渡浩の不動産投資を本業に―保証人無しでも融資を受け自己資金にレバレッジをかけて家賃年1億円越えを―
大学院修了時に資本金990万円で作った投資不動産保有会社の石渡住宅サービスを9年後の2016年に上場企業フィンテックグローバル子会社ベターライフサポートホールディングス等に約5億円で売却(株式譲渡)して上場会社連結子会社にして石渡住宅サービス(現商号:ベターライフプロパティ)名誉会長に就任した石渡浩が,自己資金数千万円規模の一般投資家さんを主対象に,銀行融資を活用してアパート経営を成功させ不動産賃貸業を本業にするためのノウハウを伝授します. 主著:『たった4年! 学生大家から純資産6億円を築いた私の投資法- 借りて増やす技術-』ソフトバンククリエイティブ(2012)
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首都圏不動産インサイドニュース
不動産業者がゼッタイ言わない最新の業界ウラ事情をリアルタイムで暴露します!!不動産投資で儲けよう!と意気込んでいるあなた。家族を守り夢を叶える手堅い不動産投資ですが数億円の借金を負う100%自己責任の事業。海千山千の業者相手に知識武装は万全ですか?「まかせっぱなし」は命取りです。かく言う私も業者ですが、不動産に携わる者として不幸な投資家さんをゼロにしたい。本気です。業界経験13年のプロとして真実だけをお伝えします。業者と対等な立場で戦ってください。決して損はさせません。村上しゅんすけ
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サラリーマンで年収1000万円を目指せ。
高卒、派遣社員という負け組から、外資系IT企業の部長になった男の、成功法則を全て公開します。誰にでも、どんな状況、状態からでも自分の力で人生を変えるための情報と知性を発信しています。人生を意のままにするには、脳みそとこころの両方が進化しなければなりません。そんな進化とは何か?をお届けする四コママンガ付きメルマガです。2014年から3年連続でまぐまぐ大賞部門賞を受賞しました 学歴やバックグラウンドに拘わらず、人生を思いのままに生きるために必要な考え方が書かれた、「良書リスト」も希望者に差し上げています。
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